。過去世も未来世もあったものでありません。神尾はついに金剛力を出しました。その力で、わずかに取縋《とりすが》っていた一条の井戸縄の手が離れました。
「あれ――」
凄《すさま》じい音を立てたのが、この世の別れであったかなかったか、弁信はついに井戸の底へ、生きながら投げ込まれてしまいました。
「あっ!」
これと共に絶叫して、後《しり》えに※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と倒れたのが神尾主膳であります。
お銀様は我を忘れて、土蔵の二階から倉の戸前まで一息に駈け下りてしまいました。
二階から駈け下りたるお銀様が、倉の重い戸前をあけるには、かなりの暇がかかりました。
ようやく、それをあけて井戸端まで来て見ると、後ろに倒れた神尾主膳は、福村の手によって頻《しき》りに介抱されています。介抱している福村は、度を失うてあわてきっているのがあまりに大仰《おおぎょう》です。
「早く、何とかしてくれ、誰でもいい、早く何とかしてくれ、大将が死んでしまう、この傷を見るがいい、始末が悪い、この傷を見るがいい」
福村は神尾を抑えたり抱えたりして、うろたえ廻っているのを、お銀様は冷笑気味で後目《しりめ》にかけて、弁信が投げ込まれた井戸へ近づこうとしたが、井戸の屋根の柱につるしてあった提灯の光が、あいにくに、怪我をしたという神尾の面《おもて》を照らしています。神尾主膳の面は、左右の眉の間から額の生際《はえぎわ》へかけて、牡丹餅大《ぼたもちだい》の肉を殺《そ》ぎ取られ、そこから、ベットリと血が流れているのです。福村があわて迷うててんてこ舞[#「てんてこ舞」に傍点]をしているのは、その大怪我のためであることがわかりました。
この点においてはお銀様は冷やかなものでした。神尾の額の大怪我は、むしろ痛快至極なものだと思いました。だから、いくら福村があわてようと噪《さわ》ごうと、いっこう驚かない。神尾が苦しむのは当然であって、ところもあろうに額の真中へ刻印を捺《お》されたことの小気味よさを喜ばないわけにはゆかないが、それにしても、咄嗟《とっさ》の間に、神尾がこの大傷を受けて倒れたのは何に原因するのか、それがわからないなりに井戸の車の輪を見上げると、釣瓶《つるべ》の一方が、車の輪のところへ食い上って逆立ちをしているように見えます。気のせいか、その釣瓶の一端に、神尾の額から殺《そ》
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