ぎ取られた牡丹餅大の肉片が、パクリと密着《くっつ》いているもののように見えました。
 お銀様は、そこでホッと息をついて、同時に胸の溜飲《りゅういん》を下げました。ははあ、これだなと思ったのでしょう。盲法師が下へ投げ込まれるとその重みで、一方の釣瓶が急転直下すると一方の釣瓶が海老《えび》のようにハネ上って、そうして、その道づれに神尾の額の肉を、牡丹餅大だけを殺いで持って行ってしまった。
 それだと思ったから、お銀様はいよいよ痛快に堪えませんでした。痛快というよりはこの時のお銀様は、まさしく神尾主膳の残忍性が乗りうつったかと思われるほどに、いい心持になりました。うめき苦しむ神尾にも、驚き騒ぐ福村にも、冷然たる白い歯をチラリと見せたきりで、井戸桁へ近寄って、一方の縄をクルリと廻してゆるめると、海老のようにハネ上っている一方の釣瓶が少しく下って来たから、手を高くさしのべてそれを取り下ろして見ると、お銀様の想像した通りに、神尾主膳の額の肉片は、べっとり釣瓶の後ろに密着《くっつ》いていました。
 お銀様は、その肉片と神尾主膳の面《おもて》と、うろたえ騒ぐ福村の挙動を見比べながら、徐《しず》かに縄を引いてみると手ごたえがあります。そこで釣瓶を卸して、両の腕《かいな》の力をこめて綱を引いてみると、いよいよ重い手ごたえがあります。生きてはいまいけれども、この綱の重みによって見ると、いま投げ込まれた盲法師は、井戸の底でまだこの縄に取付いていることはたしかです。盲法師は最後の死力で、縄に取りついたまま、その手をはなさないでいるものらしい。そうだとすれば、この縄を手繰《たぐ》ることによって、その死骸を引き上げることもできる、とお銀様はそう思ったものらしく、全力をこめて縄を手繰り出しました。
 小坊主とはいえ、人間一人を引き上げることは、女一人の力にはかなりの重荷です。それでもお銀様のこの時には、思いがけない怪力が加わったもののように、誰の助けを借りもせずに、井戸の車が動きます。
 その時に竜之助は蒲団《ふとん》の上に起き直って、枕許の煙草盆を引き寄せて、長い煙管《きせる》で煙草を喫《の》みはじめました。
 あわて騒いでいた福村は、神尾を肩にかけて、ようやくその場を退去してしまったあとには、お銀様が力をこめて井戸縄を手繰る音が、ミシリミシリと重く軋《きし》って、お銀様は一尺引き上げては休み、
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