うしてわたくしが、これほどの目に遭わなければならないのですか、それがわかりません、お助け下さいまし」
 井戸の車がミシミシと軋《きし》る音を聞いていると、盲法師は神尾の暴力を必死にこらえて、井戸の縄にとりすがっているもののようです。神尾主膳は、無茶苦茶に残忍性が嵩《こう》じて、口も利《き》けないほどに昂奮《こうふん》しているらしく、ただ鼻息のみが荒く、力を極めて一人の盲法師を井戸の中へ投げ込もうとしているもののようです。そうさせじと争う力は、盲目《めくら》の小坊主ながら侮り難きものと見えて、神尾が力を極めてやっても、ややもすればもてあますほどの抵抗力があります。最初は神尾の腕にとりすがってみたが、それを※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《も》ぎ離されると、今度は着物に取付きました。その着物が破れると、今度は井戸桁に取付きました。井戸桁に取付いたのを※[#「てへん+劣」、読みは「も」、第3水準1−84−77]ぎ取られると、今は頼みの綱の井戸縄に、しっかりと抱きついて、物哀れな悲鳴を揚げているのであります。死を怖るることかくの如く、生に愛着することかくの如くなればこそ、神尾の残忍性はいよいよそれに興味が乗ってきます。弁信が素直に殺される気ならば、神尾は、さまで問題にしなかったかも知れません。それにも拘らず、弁信はいよいよ悲鳴の限りを加えて、
「死ぬのがいやなんではございません、死なねばならぬわけがわからないのでございます、殺されるのが怖いのではございません、ここで殺されるほどの罪を、わたくしはまだ作った覚えがございません、死ねとおっしゃればいつでも死にます、わたくしが死んで、ひとさまが助かりますようなことならば、いつでも死んでお目にかけます、また、わたくしの過去の罪と、現世の罪が重いから、こうして殺すのだとおっしゃるならば、幾度でも殺されて、罪ほろぼしを致しますでございます、けれども、今晩、こうして……見ず知らずのあなた様のために、なんにもわけがなくて、ただ、お屋敷のまわりをうろついていたという廉《かど》だけで、生きながら井戸の中へ投げ込まれましては、私には死んでも死にきれませぬ、どうぞ、お助けなすって下さい、どうしてもお殺しなさるならば、私が死ねるようにしてお殺し下さいまし」
 必死になって悲鳴を揚げれば揚げるほど、神尾の残忍性に油を加えるものに過ぎません
前へ 次へ
全111ページ中75ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング