幸内を虐殺したのも、安綱の刀が欲しいとはいうものの、一つはこの残忍性がしからしめたものであります。井戸桁に取付いている盲法師の弁信は、それとは知らず、声を嗄《か》らして悲鳴を揚げました、
「人は死んでも思いというものが残ります、わたくしだけではございません、あなた様に祟《たた》りが出来ます、わたくしを井戸へハメると、あなた様が地獄に落ちますぞ」
 もとより、斯様《かよう》な警告に怖れる神尾ではありません。遮二無二、弁信を引捉えて井戸へ投げ込もうと焦《あせ》ります。弁信は、そうはさせじと死力を出して相争うこと前の如くであるが、結局、盲法師は神尾の敵ではありません。ついに井戸桁にしがみ[#「しがみ」に傍点]ついた両の手を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《も》ぎ離されてしまいました。得たりと、神尾は両の手で抱きすくめて、弁信を浚《さら》い上げました。
「あ、誰か助けて下さい、盲法師の弁信を生きながら井戸の中へ投げ込んでしまいます、弁信はそれほどの罪をつくった者ではございません、このお方が無慈悲でございます、このお方は非道でございます、誰か助けて下さる方はありませんか、一生のお願いでございます、後生《ごしょう》のお頼みでございます」
 ほとんど断末魔の叫びに等しいこの声が、土蔵の中にいるお銀様をはじめ、寝ている竜之助の耳を驚かさないわけにはゆきません。
「あなた、あれをお聞きになりましたか」
「ああ、聞いている」
 竜之助は辛《かろ》うじて答えましたけれども、起き上ってその急に赴こうとする気色《けしき》はありません。かえってお銀様が立ち上りました。
 神尾の残忍と兇暴とを知りつくしているお銀様は、この場合に、自分の力でどうすることのできないのを知らない道理はないはずであるのに、それでもじっとはしておられなくなったものと見えます。
 今、お銀様が立ち上った足許に触れたのが一管の尺八であります。今までは忘れていました。
「ああ、外の盲法師とやらが、尺八を吹いておいでになったというのは、あなたのことでございましたね、それなら、あなた、助けに行って上げて下さい、あなたの尺八の音に聞き惚れて、あとを慕って来たのだと言っているではございませんか」
 お銀様は尺八を片手に持って、再び竜之助を動かしました。この時、外では盲法師の悲鳴が三たび響き出しました、
「わたくしには、ど
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