、歌を書いた方がいいでしょうか。お経の有難味は、わたしにはまだ本当にわかりませんけれど、歌の面白味はどうやらわかっていますから、いっそお経をやめて、歌にしてしまいたいのです。信心をはじめて途中でよすと、二倍の祟《たた》りがあるということを、よく世間で言いますから、せっかく血で書きかけたお経をやめてしまえば、怖ろしい祟りがあるでしょう。法盛んなれば魔もまた盛んなりと何かの本に書いてありました、人が善心を起すと、きっと悪魔が片一方から妨げに来るそうです。この針の折れたのは、悪魔の仕業《しわざ》にちがいないと思います、悪魔が針の形に化けて、お経を書くわたしの手の中に食い入りました。これが取れなければ、いくらお経を書いても駄目なんでしょう。もし抜けるものならこの針を抜いて下さいまし、わたしの身体が、悪魔のために腐ってゆくことがおいやならば、この針を抜いて下さいまし。あなたは刀を使うことはお上手ですけれども、この短い針の折れ一本を、どうすることもできますまい。おお痛いこと、ヒリヒリと痛みます。それでもこの痛みはなんだかいい心持よ。もう一本、ここへ針を刺してみましょう、ようござんすか、あなた」
 お銀様は、また一本の針をつまみ上げました。
 その時に、土蔵の前の車井戸の輪がギーッと軋《きし》りました。誰か水を汲みに来たものと見えます。その車井戸がギーッと軋る音を聞くと、お銀様はゾッと身の毛をよだてました。お銀様は夜中に車井戸の軋る音を何よりも嫌います。その音がいやだから一旦はゾッとしたけれども、すぐにつまみ上げた第二本目の針を、なんの躊躇《ちゅうちょ》なく、ブツリと左の二の腕へ刺し込みました。真紅な血汐の粒がホロホロと湧き上りました。お銀様はそれをチクリチクリと深く刺し込みます。その度毎に少しずつこたえてゆく痛みが、なんともいえない快感を与えるものらしくあります。
 その時、車井戸の音がまたキリキリと鳴りました。それと同時にけたたましい物音が、井戸側のあたりで起りました。
「おのれ夜中《やちゅう》、人の住居《すまい》をうかがうとは怪《け》しからん奴じゃ、誰に頼まれて何しに来た、それを言わぬと、この井戸の中へ投げ込むからそう思え、さあ、誰に頼まれて何しに来た、真直ぐに言え」
 こう言って罵《ののし》っているのは、ほかならぬ神尾主膳の声であります。しかも主膳が、酔っぱらって酒乱にな
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