《うしろ》に立っていたのは、悪魔でもなければ、幸内でもありません。それは真蒼《まっさお》な面《かお》をした竜之助でありました。
お銀様はそれを見るや、
「お帰りあそばせ」
肉に食い入っている針のことは忘れて、喜び迎えました。
けれども竜之助は、お銀様が今まで何をしていたか、いま何をしたのだかを見ることができませんから、いよいよ冷然たる上に冷然たるもので、じっと突立っているうちにも、いつもと違っているのは、右の手に一本の尺八を携えていることです。
この人は今まで、どこに何をしていたのだろうということはお銀様もまだ尋ねはしません。竜之助もまたそれを語ろうともしません。尺八と刀とを荒っぽくそこへ投げ出した竜之助は、手さぐりして夜具をはね返すと、その中へもぐり込んで寝てしまいました。お銀様は眼を凝《こ》らしてその挙動をながめていました。
その沈黙が暫く続いてから後、
「もし、あなた」
お銀様は枕許へ坐って優しい言葉をかけました。この時も返事はありません。
「針がここへ刺さって痛くてたまりません、誰か抜いて下さる方があればいいのに」
お銀様は独言《ひとりごと》を言いました。それでもなんとも挨拶がありません。
「半分、この肉の中へ折れ込んでしまっているのですから、とても抜けやしませんね、どんな大力の人だって、この針ばかりは抜き取ることはできやしません、抜かないでおくと、きっとここから肉が腐りはじめるでしょうよ、そうしているうちに、この手を切ってしまわなければ、身体中が腐ってしまいましょう、悪いことをしてしまいましたね」
お銀様は、独言を言って、折れた針の創《きず》から滾々《こんこん》と湧き出す血汐を面白そうにながめています。竜之助はそれを聞いているのか聞いていないのか、相変らず死んだもののように寝込んでいるのは、よくよく疲れきったものと見えます。
「もし、あなた、私の身体《からだ》が腐ってもいいのですか」
お銀様は物狂いでもしたように、荒らかに竜之助を夜着の上から揺ぶりました。それでも答えがありません。
「わたしはこうして血を絞ってお経を書いていました、もし、わたしの身体がここから腐っていいのなら、わたしはもう、この血でお経を書きません、書きかけたお経は反古《ほご》にしてしまいます、この血で歌を書いてしまいます。あなた、お経を書いた方がいいでしょうか、それとも
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