兵馬は待たされることの、いつになく永いのを感じました。自分を待たせておいて、相手になっている今宵の客というのは何者であろうなどと考えました。
兵馬は実際、自分だけがこの女から可愛がられているつもりでいるのです。外の客はあってもそれは勤めの習いで、その女との本当の愛情は二人の間にのみあるものだと思っているのです。ただ二人の間に不足なのは、金銭が有り余るというわけにゆかないだけのことで、他に金銭を山ほど積むお客が幾らあったとて、二人がおたがいに可愛がるほどの愛情は湧いて来るものではないと思っているのです。遊女に迷うているものの自惚《うぬぼれ》には誰もありそうな心持ですけれど、兵馬のはそれがいかにも初心《うぶ》でした。しかしながら、自分がこうして待っている間に、恋しい女が他の客の相手になっているかと思えば、決していい気持はしません。
そのうちに東雲は、兵馬の許へ帰って来ました。兵馬が悶《もだ》えているほどに女は気にかけてはおりません。
「兵馬さん、わたしは近いうちに身請《みう》けをされるかも知れませんよ」
と例の通り無邪気な愛嬌をたたえて言いました。
「エ、身請けをされる? 誰に」
兵馬は足許から鳥の立つように驚かされました。
「そんなに吃驚《びっくり》なさらなくてもようございますよ、たとえ誰に身請けをされても、あなたとお会いすることのできないようなところへは参りませんから」
東雲の申しわけは、兵馬にとっては少しも申しわけになりません。それでも女は、兵馬に充分の好意を示しているつもりで、逐一《ちくいち》その身請けの話というのを兵馬に向って物語りました。
その話によると、日本橋辺のある大問屋の主人が、東雲を身請けをしようということに話が進んでいるのだそうです。今宵来ていたのはその客であろうと思われます。かなりの老人であるとのことだが、この女を身請けしていずれかへ囲《かこ》って置くつもりらしい。女も、それをまんざらいやとは思っていないらしい。もとより色でも恋でもないが、その通りの老人だから、世話になっているのも長いことではあるまいし、世話になっているうちも首尾さえすれば、どこでも兵馬を迎えて会うことができるからというような都合で、かえってこの廓《さと》にいるよりは勝手であるとの事情が唯一の理由となっているようです。
兵馬はそれを聞いて甚だ慊《あきた》らない。慊ら
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