、泣きたいほどに悶《もだ》えました。
 この苦痛に翻弄《ほんろう》されて、へとへとになって相生町の老女の家へ帰って見ると、自分の部屋に人が一人いて、無遠慮に兵馬の机へ寄りかかって物を書いています。
「おお南条殿、いつお帰りになりました」
 それは南条力でありました。
「やあ宇津木君、どこへ行っていた」
 どこへ行っていたと言われた兵馬は、
「つい、そこまで」
と勢いのない返事です。
「君、面《かお》の色がよくないぞ」
 南条はその爛々《らんらん》たる眼で、兵馬の面をジロリと見て、
「君が意気銷沈《いきしょうちん》していると娘たちが心配する、それに君、あまり外泊はせん方がよろしいぞ」
「…………」
 兵馬はグッと詰まりました。
 その時に南条力は、書きかけていた筆をさしおいて、膝を兵馬の方に向き直らせ、
「君のことだから、そうばかげたこともすまいけれど、はたで見ているものは相当に気を揉むらしい。気を揉ませぬようにしてやってくれよ、周囲《まわり》の者に気を揉ませるのがいちばん毒じゃ」
 南条は光る眼をすずしくしてこう言いました。その言葉の節々《ふしぶし》が何もかも心得ているもののようで、真綿で首を締められるように苦しくもあるが、この人だけに頼もしいところもあります。
 思案に余った上、兵馬はついに今の胸の中を、南条力に向って打明けました。
 それを聞いていた南条力は、
「してみると、その気の毒な女を救うてやりたいが金が無いということに帰するのじゃな。ぐずぐずしていれば他人が引き抜いて持って行くかも知れぬという怖《おそ》れもあるのじゃな。ともかくも傾城《けいせい》一人を身請けするというからには、相当の金がいるはずである、よほど遊んだ金を持っている奴でなければできないことじゃ。宇津木君、君がそんなことに関係したのは柄ではない、よろしく見殺しにするに越したことはないのだが、君もここまで切り出して拙者に相談を打つからには、退引《のっぴき》ならぬ義理もあるのだろう、乗りかかった船で、ぜひに及ばぬ羽目になっているのだろう、ここは一番、拙者が肌をぬいでやろうかな」
 こう言って莞爾《かんじ》として笑いました。兵馬にとってはこの一言が頼もしいような、擽《くすぐ》ったいような感じがしました。けれども、冗談《じょうだん》にしろこの男が一肌ぬいでやろうと提言してくれたことは、非常なる心強さで
前へ 次へ
全111ページ中63ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング