が多いこと、この二つは近来になって、ことさらに眼に立つようになりました。
それを、誰よりもいちばん早く見て取ったから、お松の気を揉むのは無理のない話です。
宇津木兵馬はこのごろ、吉原通いが面白くなりました。
あの時のように、東雲《しののめ》と二人で碁を打っているだけでは納まらなくなりました。東雲が勤め気を離れて兵馬を可愛がるようになると、兵馬の心が漸く熱くなってゆきました。
兵馬の傍にはお松という者もあり、お君のような美しい女もいるのに、兵馬はそれに心を取られることがありませんでした。
京都にいた時も、新撰組の連中と島原界隈にずいぶん出入りもしたけれども、ついぞ、その道に溺れるということがありませんでしたのに、ここへ来て東雲に打込むようになったのは、全く思案のほかと言わなければなりません。
人間が純良であるだけに、打込むことが深いと見え、女は商売柄、いくらかの余裕もあり、手管《てくだ》があっても、兵馬は突きつめた心で、その言うことの全部を信用してしまいます。生一本《きいっぽん》に打込むようになると、自分が愛するだけ、他から愛してもらわなければ満足ができないものになってみると、相手はこの上もない大敵であります。幾人の男にも自在に許すことのできる立場にいる女を、恋の相手として持つことほど、気の揉めることはないはずです。落ちて行くところは、他人には指一本もささせずに、己《おの》れの一人の愛情で包んでしまわなければならないということだが、それをするには、この女を身請《みう》けして、生涯を保証するということが第一の問題になっているけれど、それは兵馬の力では覚束《おぼつか》ないことで、女もまたそれを兵馬には期待していないのです。もしそんな場合に立至れば、兵馬でなくてもほかに心当りの客は、いくらもありそうなものです。今のところ、女は兵馬を可愛がり可愛がられて、勤め気を離れているというだけの気分ですけれども、兵馬には、もっと突きつめて、「世の中は金と女が敵《かたき》なり、早く敵にめぐり逢いたし」――いつぞや辻講釈で聞いた冒頭《まくら》の歌が、ひしひしと迫って来るようです。
兵馬に浴びせていた可愛ゆい言葉を、兵馬が去ればまたほかの人に惜気もなく浴びせる。兵馬を可愛がった情けを、また今宵《こよい》はほかの人に許してしまうのだ。さりとては、あんまり浅ましいと兵馬は帰りがけに
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