して、帰心《きしん》矢の如きものあるべきは、情においても、理においても、当《まさ》にしかるべきところがあるが、今では、もう義理にも人情にも泣こうという涙は涸《か》れて、ただただ血に渇く咽喉《のど》が拡大し、夜な夜な飽くまで人の血を貪り飲むの快味に我を忘れ、我を荒《すさ》ましめているに過ぎなかろう。今時分、里心に駆られて故郷《ふるさと》へ帰ってみたって、そこには何の興味もあるべきはずはない。興味はあるべきはずはないけれども、この際、何とはなしに帰りたくなったものと見れば論はないが、肝腎の早駕籠は甲州の裏表の街道、いずれをも飛んで行く形勢はなくて、意外千万のことには、その夜の大引け前になって、竜之助は杖をついて、吉原の大門内を忍びやかに歩いていました。
 お銀様は吉原の廓《くるわ》のうちを探していたけれど、その時分には竜之助はあまり吉原へは立入らなかったようです。
 今日この時分にここへ入り込んだ竜之助の姿は、あまり人目にはつきませんでした。茶屋から行こうとするのでもなく、以前神尾に連れられて行った万字楼をさして行こうでもありません。茶屋と妓楼《ぎろう》の軒下を例の通り忍びやかに歩いて、巴屋《ともえや》の前へ来ると立ち止まりました。そこで、彼が巴屋の暖簾《のれん》を押分けて入ってしまったきり、出て来ないのは不思議です。
 竜之助の姿が巴屋の暖簾の下で消えると、まもなく、
「大隅《おおすみ》さん、大隅さん」
と誰やらの呼ぶ声が聞えました。
「あいよ」
 二階の一間で返事をしたのは、若い女の声であります。
「按摩さんが参りましたよ」
「あ、そうですか」
 まもなく番新がそこへ連れ込んだのは、按摩さんとは言い条、決して机竜之助ではありません。廓《くるわ》へ出入りするあたりまえの按摩を、番新があたりまえに引張って来たのに過ぎません。まもなく連れ込まれた按摩は、中でハタハタと肩の療治にかかりながら、世間話をはじめているのが、よく聞えます。
「万字楼の白妙《しろたえ》さんは、かわいそうなことを致しました、ほんとにお気の毒でございますよ、まあ、なんて運が悪いことでしょう」
「万字楼の白妙さんが、どうかなすったの」
「花魁《おいらん》はまだあれをお聞きになりませんか。柳原の土手で、あの花魁が殺されてしまいましたよ」
「え、柳原の土手で、あの白妙さんが殺されたって? そりゃ嘘でしょう」

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