「いいえ、嘘なんぞは申しません、あの花魁が御贔屓《ごひいき》の旦那にひかされて、矢の倉の親御さんのところへお帰りになったのは、つい近頃のことでございましたが、お礼参りだといって柳原の、杉の森の稲荷様へ御参詣になった帰りに、やられてしまいました」
「へえ、ずいぶん、怖ろしいことを聞くものですね、まあ、どうしてそんなことになったのでしょう」
「このごろは、江戸の市中へ辻斬ということが流行《はや》って、行当りバッタリに殺《や》られる人が何人あるか知れません。ほんの近いところですけれども、一人で夜歩きをなさったのが、あの方の落度《おちど》でございますね、その帰りにやられてしまったんでございます。それでも、人の噂には、あれは辻斬ではなかろうということでございます、辻斬ならば、スッパリと抜打ちかなにかにやるんでしょうけれど、あの花魁のは抉《えぐ》ってあるんだそうですから、何か遺恨《いこん》があって、つまり恋の恨みだろうと言って、専《もっぱ》らの評判でございますよ」
「いや、いや、そんな話は、もうよしましょう、今時、まだ恋の恨みで人を殺すような男があるのか知ら」
「そりゃ、ありますともさ、いつになっても、この道ばかりは別でございますからね」
 按摩がうっかりこんなことを言った時に、面《かお》がダラリと伸びて、口が耳まで裂けたようでしたから、この部屋にいる人が、みんなゾッとしました。
 そこへ、白い羽二重を首に巻いて、十徳《じっとく》を着た、坊主頭の、かなりの年配な、品のよい人が不意に姿を現わし、障子をあける音もなしに入って来たから、眼の見えない按摩のほかは、新造《しんぞ》も禿《かむろ》も一度に狼狽して、
「御前様《ごぜんさま》、ようこそ」
と言って手をつきました。無論、当の花魁の大隅も、按摩をやめさせて居ずまいを直したものです。
 ところが、どうでしょう、一度に狼狽して敬意を表した部屋中の人々が、
「おやおや」
と言って面を見合わせたが、その面は、いずれも土のようになっていました。
「たしかに御前様がおいでになりましたね」
 新造が言うと、
「ええ、たしかにおいでになりましてよ」
 禿《かむろ》が返事をしました。大隅もまた、
「まあ、どうしたのでしょう」
 呆《あき》れた上に、歯の根が合わなくなっているようです。取残されているのは按摩さんだけで、それは、きょとんとしてせっかくの話
前へ 次へ
全111ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング