ちぶり》ではありません。
けれど、馬子の口から出たことは間違いがありません。
その時に、馬に附添って来た三人の武士は、汝《おの》れ狼藉者《ろうぜきもの》! と呼ばわってきってかかりでもするかと思うと、それも微塵《みじん》騒がず、遽《にわ》かに馬の側から立退いて、やや遠く三方に分れて立ちました。この陣場ケ原というところは、昼ならば碓氷峠第一の展望の利くところでありますから、そうして三方にめぐり立てば、どちらの方面から来る人の目を防ぐこともできます。
ところで南条力は、右の一言を発しただけで、前にいた馬子の傍へ立寄ると、五十嵐甲子雄は二番目の馬子に近寄って、
「お役目御苦労」
と、やはり低い声で言いかけると、
「御苦労、御苦労」
と第二の馬子も、やはり馬子らしくない口調で一言《ひとこと》いったきり。そこで、馬子は提灯《ちょうちん》を鞍へかけて、都合四人が、おのおの己《おの》れの衣裳を脱ぎ換えはじめました。
南条と五十嵐とは己れの衣類大小をことごとく脱ぎ捨てて、馬子はその簡単な馬子の衣裳を解いてしまうと、この両者は手早くそれを取換えて一着してしまいました。そうして忽《たちま》ちの間に南条力は第一の馬の馬子となり、五十嵐甲子雄は第二の馬の馬子となり、以前の二人の馬子は、雁首《がんくび》の変った南条、五十嵐になってしまいました。
この時、三方に離れて遠見の役をつとめていた三人の武士は、急に立寄って来て、また馬の左右に附添いました。
以前に馬子であった二人だけは、その馬の前にも立たず後にも従わず、東へ向いて行く一行を見送って立っているのであります。そうして馬の足音も、全く闇の中に消えてしまった時分に、二人は元の峠の宿の方へ引返してしまったから、そのあとの陣場ケ原には、焚火の燃えさしだけが物わびしく燻《くすぶ》っているだけです。
十
その翌日、妙義神社の額堂の下で、なにくわぬ面《かお》をして甘酒を飲んでいるのは、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百でありました。
縁台に腰をかけて、風合羽《かざがっぱ》の袖をまくり上げて甘酒を飲みながら、しきりに頭の上の掛額をながめておりましたが、
「爺《とっ》さん、ここに大した額が上ってるね……」
と甘酒屋の老爺《おやじ》に、言葉をかけました。
「へえへえ、なかなか大したものでございます」
老爺は自分のものでも賞《ほ》められた気になって、嬉しそうに、同じく頭の上の額堂の軒にかかった大きな掛額をながめました。
「甲源一刀流祖|逸見《へんみ》太四郎|義利孫逸見利泰《よしとしそんへんみとしやす》……」
筆太に記された文字を、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は声を立てて読むと、
「秩父の逸見先生の御門弟中で御奉納になったのでございますが、当国では真庭の樋口先生、隣国では秩父小沢口の逸見先生、ここらあたりは、剣道の竜虎でございます」
それを聞いて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百も何かしら勇み出して、
「知ってるよ、爺《とっ》さん、わしはいったい甲州者なんだがね、その甲源一刀流の秩父の逸見先生というのは、甲州の逸見冠者十七代の後胤《こういん》というところから甲斐源氏を取って、それで甲源を名乗ったものなんだ、だから何となく懐しいような気がして、こうしてさいぜんからながめているんだ」
「左様でございますか、お客様も甲州のお方でございますか、甲州はまことに結構なところだそうでございますね」
「あんまり結構なところでもねえのだが、爺さんよ、こうして、さっきからこの額面をながめているうちに、どうも気になってならねえことがあるんだが……」
「何でございます」
「ほかでもねえが、初筆《しょふで》から三番目のところに紙が貼ってあるだろう、比留間《ひるま》なんとやら、桜井なんとやらという人の名前の次にある人の名前は、何という方だか知らねえが、ああして頭からべっとり紙を貼ってしまったのは、ありゃいったいどうしたわけなんだ」
「あれでございますか、あれはね……」
老爺《おやじ》は心得て、何をか説明しようとするのを、気の短いがんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、
「あんまり味のねえやり方をしたもんだね、書き直すんなら書き直すんで、もっと穏かな仕方がありそうなもんじゃねえか、頭から無茶に白紙《しらかみ》を貼りかぶせてしまったんじゃ、見た目があんまり良い気持がしねえ、御当人だって晴れの額面へ持って行って、自分の名前だけ貼りつぶされたんじゃ浮ばれねえだろうじゃねえか。これだけの御門弟のうちに、そこに気のつく人はねえのかな。削り直したところで何とかなりそうなもんだ、刳《く》り抜いて埋木《うめき》をしておいたって知れたもんだろう、なんにしたって、ああして白紙を貼りかぶせるのは不吉だよ」
しきりに腹を立てて見ている額面には、なるほど、初筆から三番目あたりの門弟の人の名の上に、無惨に白紙が貼りつけてあるのであります。老爺《おやじ》はその時、前の言葉をついで、
「あれはお客様、なんでございますよ、どなたもみんな、あれを御覧になると、そうおっしゃいますんでございますが、皆さん御承知の上で、ああいうことになすったんでございますから仕方がありませんので」
「エ、みんな承知の上だって? 承知の上でああして貼りつぶしちゃったのかい」
「ええ、左様でございます、あの下に、机竜之助相馬宗芳というお方のお名前が、ちゃんと書いてあるんでございます」
「何だって? 机竜之助……」
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は面《かお》の色を変えました。釜の前に立っていた老爺は、わざわざ縁台の方へ歩き出して来て、
「剣道の方のお方が、ここへおいでになってあれを御覧になると、どなたもみんな惜しい惜しいとおっしゃらない方はございません、なかには涙をこぼすほど惜しがって、この下を立去れないでいらっしゃるお方もございます」
「うーん、なるほど」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は何に感心したか、面の色を変えて唸《うな》り出し、改めてその紙の貼られた額面を穴のあくほど見ています。
「惜しいお方ですけれども、剣が悪剣だそうですから、どうも仕方がございません」
「悪剣というのは、そりゃ何のことなんだい」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は投げ出すような荒っぽい口調で、老爺を驚かせました。
「どういうわけですか、皆さんがそうおっしゃいます、それがために逸見先生の道場から破門を受けて、その見せしめのために、ああしてお名前の上へ、べったりと紙を貼られておしまいになってから、もうかなり長いことでございます」
「なるほど、そりゃありそうなことだ」
「けれどもまた、その御門弟衆のうちでも、惜しい惜しいとおっしゃるお方がございます。他国からこのお山へ御参詣になった立派な武芸者のお方で、この額を御覧になり、ああ、机竜之助は今どこにいるだろう、あの男に会ってみたい……と十人が十人まで、申し合わせたようにそうおっしゃって、あの額を残り惜しそうに御覧になるのが不思議でございますから、私がその仔細《しさい》を一通りお聞き申しておきました。お聞き申してみると、なるほどと思われることがありますんでございますよ」
「ふむ、そりゃそうだろう」
「もとの起りからそれを申し上げると、ずいぶん長くなりますんですが……」
それでも老爺は、その長きを厭《いと》わずに、ずいぶん話し込んでみようと自分物の縁台に、がんりき[#「がんりき」に傍点]と向き合って腰を卸そうとした時に、麓の方から賑《にぎ》やかしい笛と太鼓の音が起ったので、その腰を折られました。
麓から登って来るのは、越後の国から出た角兵衛獅子の一行であります。その親方が、てれんてんつくの太鼓を拍《う》ち、その後ろの若者が、ヒューヒューヒャラヒャラの笛を吹き、それを取捲いた十歳《とお》ぐらいになる角兵衛獅子が六人あります。
[#ここから2字下げ]
しちや、かたばち、
小桶《こおけ》でもてこい、
すってんてれつく庄助さん
なんばん食っても辛《から》くもねえ
[#ここで字下げ終わり]
この思いがけない賑やかな一行の乗込みで、せっかくの話の出鼻をすっかり折られた老爺は、呆気《あっけ》に取られた面《かお》をしているところへ、早くも乗込んだ六人の角兵衛獅子が、
「角兵衛、まったったあい――」
卍巴《まんじどもえ》とその前でひっくり返ると、てれてんつくと、ヒューヒューヒャラヒャラが、一際《ひときわ》賑やかな景気をつけました。
ほかにお客というのはないんだから、この角兵衛獅子の見かけた旦那というのは、おれのことだろう。そこでがんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、どうしても御祝儀を気張らないわけにはゆかなくなりました。
「兄貴に負けずにしっかり[#「しっかり」に傍点]やんなよ」
と言って、がんりき[#「がんりき」に傍点]は例の左手で懐ろから財布を引き出すと、その中から掴み出した一握りを、鶏の雛に餌を撒くような手つきで、バラッと投げ散らしました。
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、角兵衛獅子を相手に大尽風《だいじんかぜ》を吹かしていると、妙義の町の大人も子供も、その騒ぎを聞きつけて出て来ました。この見物の半ば最中に、角兵衛獅子の登って来たのとは反対の方角の側から、同じところへ登って来た一行があります。
この一行は角兵衛獅子のような嗚物入りの一行とは違って、よく山方《やまかた》に見ゆる強力《ごうりき》の類《たぐい》が同勢合せて五人、その五人ともに、いずれも屈強な壮漢で、向う鉢巻に太い杖をついて、背中にはかなり重味のある荷物を背負《しょ》っています。
大尽風を吹かしていたがんりき[#「がんりき」に傍点]の百が、ふとこの五人の同勢の登って来たのを見ると、
「おいおい角兵衛さん、もうそのくらいでいいよ、御苦労御苦労」
ここへ来た五人の強力の同勢は、さあらぬ体《てい》に、この額堂下の甘酒屋へ繰込んで来ました。
先に立った強力の一人を、よく気をつけて見れば只者ではないようです。そのはず、この男こそ、碓氷峠の陣場ケ原で一昨夕、焚火をしてなにものをか待っていた南条力でありました。すでにこの男が南条力でありとすれば、その次にいるのが五十嵐甲子雄であることは申すまでもありますまい。そのほかの三人は、あの陣場ケ原のひきつぎの時に、三方に立って遠見の役をつとめていた三人の武士。それが都合五人ともに、いつのまにか申し合せたように強力《ごうりき》姿に身をやつしています。急に、てんてこ舞するほど忙しくなったのは甘酒屋の老爺で、この五人の馬のような新しいお客様と、それから、たった今、一さし舞い済ました小さな角兵衛獅子が改めてこのたびのお客様となったのと、それにつれそう太鼓の親方と、笛の若者とに供給すべく、新しく仕込みをするやら、茶碗に拭《ぬぐ》いをかけるやら、炭を煽《あお》ぎはじめるやら、ここはお爺《とっ》さんが車輪になって八人芸をつとめる幕となりました。
やがて五人の強力は、一杯ずつの甘酒に咽喉《のど》をうるおすと、卸《おろ》しておいためいめいの荷物を取って肩にかけ、南条力が目くばせをするとがんりき[#「がんりき」に傍点]の百が心得たもので、
「爺《とっ》さん、また帰りに寄るよ」
と言って幾らかの鳥目《ちょうもく》をそこへ投げ出して、立ち上ります。
額堂を出たがんりき[#「がんりき」に傍点]を先登に、南条らの一行は白雲山妙義の山路へ分け入ったが、下仁田街道《しもにたかいどう》の方へ岐《わか》れるあたりからこの一行は、急速力で進みはじめました。
十一
がんりき[#「がんりき」に傍点]を初め南条の一行が、山へ向けてここを去ってしまい、角兵衛獅子の一座もほどなく町の方へ引返してしまい、それから小一時《こいっとき》ほどたって、同じ額堂下の甘酒屋へ、同じような風合羽を着た道中師らしい二人の男が、ついと入って来て、二人向き合って縁台に腰をかけて、
「どっこいしょ」
杖について来た金剛杖でもない手頃の棒をわき
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