というよりは、そっ[#「そっ」に傍点]と波が持って来て、ここへ置いて行ったという方がよろしいと思われるくらいであります。
もし、昨夜の暴風雨が、この沖を通う船を砕いて、その乗合の一人であったこの女だけをここへ持って来たものとすれば、それは特別念入りの波でなければなりません。そうでなければ海とは全然違ったところから、何者かがこの女を荷《にな》って来て、寝かして行ったものと思わなければならないほど、安らかに置かれてあるのであります。さりとて一見しただけでも、これはこの辺にザラに置かれてあるような女ではありませんでした。
「女ですね、江戸あたりから来た女のようですね、ここいらに住んでいる女じゃありませんね」
鈍重な清吉もまた、それと気がつきました。
「うむ、昨晩、沖を通った船の客に相違ないが、しかし……それにしては無事であり過ぎる」
駒井甚三郎は、ずかずかと立寄って、横たわっている女の身体をじっとながめました。髪の毛はもうすっかり乱れていましたが、右手はずっと投げ出して、それを手枕のようにして、左の手は大きく開いているから、真白な胸から乳が、ほとんど露《あら》わです。けれども、帯だけはこうなる前に心して結んでおいたと見えて、その帯一つが着物をひきとめて、女というものの総てを保護しているもののようです。
駒井甚三郎は腰を屈《かが》めて、女の胸のあたりに手を入れました。
「どうでしょう、まだ生き返る見込みがあるんでございましょうか」
清吉は気を揉んでいます。
「絶望というほどじゃない、生き返るとすれば不思議だなあ」
駒井甚三郎は、まだ女の乳の下に手を置いて、小首を傾《かし》げています。
「不思議ですねえ」
清吉も同じように、首を傾げると、
「平沙の浦の海は、全くいたずら[#「いたずら」に傍点]者だ」
駒井甚三郎は何の意味か、こう言って微笑しました。
「エ、いたずら[#「いたずら」に傍点]者ですか」
清吉は、何の意味だがわからないなりに、怪訝《けげん》な面《かお》をすると、
「うむ、平沙の浦の波はいたずら[#「いたずら」に傍点]者とは聞いていたが、これはまたいっそう皮肉であるらしい」
「皮肉ですかね」
清吉には、まだよく呑込めません。
「そうだとも、あの暴風雨の中で、波の中の一組だけが別仕立てになって、ここまで特にこの女だけを持って来て、そーっと置いて帰ってしまったところなどは、皮肉でなくて何だろう。見給え、どこを見てもかすり傷一つもないよ、着物も形だけはひっかかっているし、帯も結んだ通りに結んでいる、水も大して呑んじゃいない」
駒井甚三郎は、女そのものを救おうとか、助けなければならんとかいう考えよりは、こうまで無事に持って来て、置いて行かれたことの不思議だか、いたずら[#「いたずら」に傍点]だか、波に心あってでなければ、とうてい為し難い仕事のように思われることに好奇心を動かされて、ほとほと呆《あき》れているようです。
この時分になって清吉も、漸く知恵が廻って来たらしく、
「そうですね、ほんとにわざっとしたようですね」
と言いました。
「ともかく、早くこれを番所まで連れて行って、手当をしようではないか」
「エエ、わたしが背負《おぶ》って参ります」
清吉は女の手を取って引き起し、それを肩にかけました。
六
それから三日目の夕暮のことでした。駒井甚三郎は鳥銃を肩にして、西岬村《にしみさきむら》の方面から、洲崎《すのさき》の遠見の番所へ帰って見ると、まだ燈火《あかり》がついておりません。こんなことには極めて几帳面《きちょうめん》である清吉が、今時分になって燈火をつけていないということは異例ですから、甚三郎は家の中へ入ると直ちに言葉をかけました。
「清吉、燈火がついていないね」
けれども返事がありません。甚三郎の面《おもて》には一種の不安が漂いました。まず、自分の部屋へ入って蝋燭《ろうそく》をつけました。この部屋は、甲府の城内にいた時の西洋間や、滝の川の火薬製造所にいた時の研究室とは違って、尋常の日本間、八畳と六畳の二間だけであります。ただ六畳の方の一間が南に向いて、窓を押しさえすれば、海をながめることのできるようになっているだけが違います。
部屋の中も、昔と違って、書籍や模型が雑然と散らかっているようなことはなく、眼にうつるものは床の間に二三挺の鉄砲と、刀架《かたなかけ》にある刀脇差と、柱にかかっている外套《がいとう》の着替と、一方の隅におしかたづけられている測量機械のようなものと、それと向き合った側の六畳に、机腰掛が、おとなしく主人の帰りを待っているのと、そのくらいのものです。
それでも、いま点《つ》けた蝋燭は、さすがに駒井式で、それは白くて光の強い西洋蝋燭であります。蝋燭を点けると、燭台ぐるみ手に取り上げた駒井甚三郎は、さっと窓の戸を押し開きました。窓の戸を開くと眼の下は海です。この洲崎の鼻から見ると、二つの海を見ることができます。そうして時とすると、その二つの海が千変万化するのを見ることもできます。二つの海というのは、内の海と外の洋《うみ》とであります。内の海とは、今でいう東京湾のことで、それは、この洲崎と、相対する相州の三浦三崎とが外門を固めて、浪を穏かにして船を安くするのそれであります。外の洋《うみ》というのは、亜米利加《アメリカ》までつづく太平洋のことであります。ここの遠見の番所は、この二つの海を二頭立ての馬のように御《ぎょ》してながめることのできる、絶好地点をえらんで立てられたものと見えます。
甚三郎が蝋燭を片手に眺めているのは、その外の方の海でありました。内の海は穏かであるが、外の海は荒い。ことに、外房にかかる洲崎あたりの浪は、単に荒いのみならず、また頗《すこぶ》る皮肉であります。船を捲き込んで沈めようとしないで、弄《もてあそ》ぼうとする癖があります。来《きた》ろうとするものを誘《おび》き込んで、それを活かさず殺さず、宙に迷わせて楽しむという癖もあります。試みに風|凪《な》ぎたる日、巌《いわ》の上に佇《たたず》んで遠く外洋《そとうみ》の方をながむる人は、物凄き一条の潮《うしお》が渦巻き流れて、伊豆の方へ向って走るのを見ることができましょう。その潮は伊豆まで行って消えるものだそうだが、果してどこまで行って消えるのやら、漁師はその一条の波を「潮《しお》の路」といって怖れます。
外の洋《うみ》で非業《ひごう》の最期《さいご》を遂げた幾多の亡霊が、この世の人に会いたさに、遥々《はるばる》の波路をたどってここまで来ると、右の「潮の路」が行手を遮って、ここより内へは一寸も入れないのだそうです。さりとてまた元の大洋へ帰すこともしないのだそうです。その意地悪い抑留を蒙った亡霊どもは、この洲崎のほとりに集まって、昼は消えつつ、夜は燃え出して、港へ帰る船でも見つけようものならば、恨めしい声を出してそれを呼び留めるから、海に慣れた船頭漁師も怖毛《おぞけ》をふるって、一斉に艪《ろ》を急がせて逃げて帰るということです。
こんな性質《たち》の悪い洲崎下の外洋を見渡して、やや左へ廻ると、それが平沙《ひらさ》の浦になります。
「平沙の浦はいたずら[#「いたずら」に傍点]者だ」と、おととい駒井甚三郎がそう言いました。
平沙の浦も、その皮肉なことにおいては相譲らないが、それは洲崎の海ほどに荒いことはなく、かえって一種の茶気を帯びていることが、愛嬌といえば愛嬌です。
平沙の浦がするいたずら[#「いたずら」に傍点]のうちの第一は、舟を岸へ持って来ることです。ほかの海では、船を捲き込んだり、誘《おび》き寄せたり、突き放したり、押し出したりして興がるのに、この平沙の海は、ずんずんと舟を岸へ持って来てしまいます。岸へ持って来て、いわに打ちつけるような手荒い振舞をせずに、砂の上へ、そっと置いて行ってしまいます。
このおてやわらかないたずら[#「いたずら」に傍点]は、幸いに船と人命をいためることはありませんが、船と人をてこず[#「てこず」に傍点]らせることにおいては、いっそ一思いに打ち壊してしまうものより、遥かに以上であります。
平沙の浦の海へ入って見ると、下には恐ろしい暗礁が幾つもあって、海面は晴天の日にも、大きなうねりがのた[#「のた」に傍点]打ち廻っている。漁師たちはそのうねりを「お見舞」と称《とな》えて、怖れています。いい天気だと思って、安心して舟を遊ばせていると、いつのまにか、この「お見舞」がもくもくと舟を打ち上げて来ます。その時はもう遅い。舟は大きなうねりに乗せられて、岸へ岸へと運ばれてしまう。帆はダラリと垂れてしまって、舵《かじ》はどう操《あやつ》っても利かない。そうしているうちに舟と人とは、砂の上へ持って来て、そっと置いて行かれてしまいます。
そのいたずら[#「いたずら」に傍点]な平沙の浦の海をながめていた駒井甚三郎は、ふいと気がついて、
「そうだそうだ、あの婦人はどうしたろう、今日はまだ見舞もしなかったが、清吉がいないとすれば、誰も看病の仕手は無いだろう、燈火《あかり》もついてはいないようだし」
と呟《つぶや》いて窓を締め、蝋燭を手に持ったままで、壁にかけてあった提灯《ちょうちん》を取り下ろしてその蝋燭を入れ、部屋を出て縁側から下駄を穿《は》いて番小屋の方へ歩いて行きました。小屋の戸を難なくあけて見ると、中は真暗で、まだ戸も締めてないから、障子だけが薄ら明るく見えます。
「清吉は居らんな」
甚三郎は駄目を押しながら、その提灯を持って座敷へ上ると、そこは六畳の一間です。その六畳一間の燈火もない真暗な片隅に、一人の病人が寝ているのでした。
その病人の枕許《まくらもと》へ提灯を突きつけた駒井甚三郎は、
「眠っておいでかな」
低い声で呼んでみました。
「はい」
微かに結んでいた夢を破られて、向き直ったのは女です。かのいたずら[#「いたずら」に傍点]な平沙の浦の磯から拾って来た女であります。
「気分はよろしいか」
甚三郎は提灯を下へ置いて、蝋燭を丁寧に抜き取って、それを手近な燭台の上に立てながら、女の容体《ようだい》をうかがうと、
「ええ、もうよろしうございます、もう大丈夫でございます」
はっきりした返事をして、女は駒井甚三郎の姿を見上げました。
「なるほど、その調子なら、もう心配はない」
甚三郎もまた、女の声と血色とを蝋燭の光で見比べるように、燭台をなお手近く引き出して来ると、
「もし、あなた様は……」
急に昂奮した女の言葉で驚かされました。
「ええ、なに?」
甚三郎が、屹《きっ》と女の面《おもて》を見直すと、
「まあ勿体《もったい》ない、あなた様は、甲府の御勤番支配の殿様ではいらっしゃいませんか」
女は床の上から起き直ろうとしますのを、
「まあまあ静かに。甲府の勤番の支配とやらの、それがどうしたの」
甚三郎は、女の昂奮をなだめようとします。
駒井甚三郎は、ここでこの女から、己《おの》れの前身を聞かされようとは思いませんでした。女をなだめながら、もしやとその面《おもて》を熟視しましたけれども、どうも心当りのある女とは受取ることができません。
「わたくしは、あの時から殿様のお姿を決して忘れは致しません」
女は何かに感激しているらしい声でこう言いましたから、甚三郎は、
「あの時とは?」
「それはあの、甲州へ参ります小仏峠の下の、駒木野のお関所で……」
「ははあ、なるほど」
ここにおいて駒井甚三郎は、さることもありけりと思い当りました。そうそう、初めて甲州入りの時、一人の女が血眼《ちまなこ》になって、手形なしに関所を抜けようとして関所役人に食い留められた時、駒井能登守の情けある計らいで、わざと目的地の方の木戸へ追い出させたことがある。それだ、その女だなと思いましたから、
「拙者はトンとお見忘れをしていた。そなたは、あれから無事に、尋ねる人を探し当てましたか」
「はい、おかげさまで……かなり長い間、甲州におりました。その間も、よそながら殿様のお姿をお見かけ申し
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