一つで、船の中の者が残らず救われたんだ、だから……」
船頭がお角の面《おもて》を見つめたままでこう言いかけた時に、お角は颶風《つむじかぜ》のように身を起して、
「だから、どうしようと言うの、だから、わたしをどうかしようと言うの」
お角の船頭を睨《にら》んだ眼もまたものすごいものでありました。それでも船頭はやっぱりお角を睨み返しながら、
「いや、お前さんをどうしようというわけじゃあございません、お前さんの量見に聞いてみてえんでございます」
「エ、わたしの量見ですって? わたしの量見を聞いてどうするの」
「この船の中で、女のお客はお前さんだけなんですね、今まで女一人のお客というのはなかったこの船に、今日に限ってお前さんが乗り込むとこの通りの暴風《しけ》だ」
「それがどうしたの、それじゃあ、わたしが一人でこの暴風を起しでもしたように聞えるじゃないか」
「お前さんが暴風を起したんじゃないけれど、お前さんがいるために暴風が起ったようなものだ」
「何ですと、わたしが暴風を起したんじゃないけれど、わたしがいるために暴風が起ったようなものですって? 同じことじゃないか、それじゃあ、やっぱり、わたし一人がこの暴風を起したということになるんじゃないか、ばかばかしいにも程があったものさ」
外の暴風雨《あらし》よりも船頭の言い分が、お角にとっては決して穏かに聞えませんでしたから、躍起《やっき》となって抗弁しました。
「船頭さん、お前、なんだかおかしなことを言い出したね」
お角に附添って来た庄さんという若い男も、堪《たま》り兼ねて喧嘩腰になりました。
「いいや、おかしいことじゃねえのです、今日に限ってこんなことになるのは、こりゃあ必定《てっきり》、船の中に見込まれた人があるのだ、その見込まれたというのはほかじゃねえ、船ん中でたった一人の女のお客様を、海の神様が嫉《そね》んでいたずら[#「いたずら」に傍点]をなさるに違えねえのだから、お気の毒だがその人に出て行って、海の神様にお詫《わ》びがしてもらいてえのだ。なにも、こりゃ俺が無慈悲でいうわけじゃありませんよ、船の乗合みんなの衆のためですよ、もし、お前さんがみんなの衆の命を助けてやりてえという思召しがあるんなら、あの大昔の、あの橘姫の命様《みことさま》の思召しのように……」
と船頭がここまで言い出すと、お角は怺《こら》えられません。
「おっと、待っておくれ、待っておくれ、人身御供《ひとみごくう》というのはそのことかね、つまり、わたしにその大昔の橘姫の命様とやらの真似をしろとおっしゃるんだね」
「それよりほかには、この難場《なんば》を逃れる道がねえのだから、お前さんにはお気の毒だが、乗合の衆のためだ。ねえ、皆さん、この船頭の言うことが不条理かエ」
「…………」
「ここで人身御供が上らなけりゃあ、みすみす三十何人の乗合が残らず鱶《ふか》の餌食《えじき》になってしまうのだ、それでようござんすかエ」
船頭はこう言って、乗合の者の頭の上をずらりと見渡したけれど、誰あってこれに返答する間もなく、お角は猛《たけ》り立ちました。
「ふざけちゃいけないよ、やい、ふざけやがるない、こんな暴風《しけ》が起ったのは時の災難だよ、なにもわたしが船に乗ったから、それで暴風が起ったんじゃないや。船に女が一人乗り合せたのがどうしたんだい、はじめのうちは船は女の物だの、正座を張れのと、さんざん人を煽《おだ》てておいて、この暴風雨《あらし》になると、みんなわたしにかずけて、人身御供《ひとみごくう》に海へ沈んでくれとはよく出来た。そりゃ昔の橘姫というお方と、わたしたちとはお人柄が違わあ、第一、この中に日本武尊様ほどのお方がいらっしゃるならお目にかかろうじゃないか、みんな自分たちの命が助かりたいから、それで、わたし一人を人身御供に上げようと言うんだろう、虫のいい話さ、ばかにしてやがら。雑魚《ざこ》の餌食になろうとも、我利我利亡者《がりがりもうじゃ》の手前たちの身代りになって沈めにかかるような、そんなお安いお角さんじゃないよ。死なばもろともさ、乗合が一人残らず一緒に行くんでなけりゃ、冥途《めいど》の道が淋しくってたまらないよ」
「おかみさん、もうこうなりゃ、ジタバタしたって仕方がねえ」
船頭は猿臂《えんぴ》を伸べて、お角の二の腕をムズと掴《つか》みます。
「おや、わたしを掴まえてどうしようというの」
お角は、船頭に掴まった二の腕を烈しく振りほどいて、血相を変えると、
「野郎、おかみさんをどうしようと言うんだ」
附添の若い男が、お角を掩護《えんご》するつもりで、船頭に武者ぶりついたけれど、腰が定まらないのに船頭の一突きで、無残に突き飛ばされて起き上ることができません。
船頭に掴まった二の腕を烈しく振りほどいたお角は、そのまま荷物と人の頭とを跳り越えて外へ飛び出しました。
この時分、甲板へ飛び出すことの危険は、人身御供になることの危険と同じようなものであることはわかっているけれど、この女はそれを危ぶんでいるほどの余裕がなかったものらしくあります。
若い男を突き飛ばしておいた船頭は、腰に差していた斧を無意識に抜き取って、右の手に引提《ひっさ》げたまま、透かさずお角の後を追蒐《おっか》けました。
乗合全体は総立ちになる途端に、大揺れに揺れた船が何かに触れて、轟然《ごうぜん》たる音がすると、そのはずみで残らず、※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》とぶっ倒されてしまいました。
「わーっ、水、水、水が……」
そこで名状すべからざる混乱が起って、残らずの人が七顛八倒《しちてんばっとう》です。七顛八倒しながら、かの上り口のところへ押しかけて、前にお角と船頭とがしたように、先を争うて甲板の上へ走り出そうとして、押し合い、へし合い、蹴飛ばされ、踏み倒され、泣き喚《わめ》いて狂い廻ります。船の外は真暗な天地に、囂々《ごうごう》と吼《ほ》ゆる風と波とばかりです。船は木の葉のように弄《もてあそ》ばれて、すでに振り飛ばすべきものの限りは振り飛ばしてしまいました。綱を増した碇《いかり》も引断《ひっき》られてしまい、唯一の帆柱でさえも、目通りのあたりから切り折られてしまった坊主船は、真黒な海の中で、跳ね上げられたり、打ち落されたり、右左にいいように揉み立てられ、散々《さんざん》に翻弄されて、それでもなお残忍な波濤の間に、残骸を見せつ隠しつしている有様です。
尋常では腰の定まるべくもないこの場合の甲板の上を、転びもせずに、吹き荒れる雨風をうまく調子を取って、ひらりひらりと物につかまりながら走って来るのは、むかし取った杵柄《きねづか》ではなく、むかし鍛えた軽業の身のこなしでもあろうけれど、この女の勝気がいちずに、不人情を極めた手前勝手な船頭の手から逃れて、これに反抗を試みようとして、思慮も分別も不覚にさせてしまったものと見るほかはありません。
片手に斧を引提げて、こけつまろびつ、それを後ろから追いかける船頭とても、本来が決してさほどに、不人情でも、手前勝手でもあるわけではなく、ただ危険が間髪《かんはつ》に迫った途端に、その日ごろ持っている海の迷信が逆上的に働いて、こうせねば船のすべてが助からぬ、こうすれば必ず助かるものだと思い込ませたその魔力がさせる業《わざ》でありましょう。
けれども、つづいて先を争うて甲板の上へハミ出した、二人のほかの乗合は無残なものでありました。出ると直ぐに大風に吹き飛ばされて、或る者は切り残された帆縄につかまって助けを呼び、或る者は船の垣根の板に必死にとりすがって海へさらわれることをさけ、辛《かろ》うじて帆柱の方へ這《は》って行く者も、雨風に息を塞がれて、助けを呼ぶの声さえ立てることができません。
真先に、かの切り残された帆柱の切株にすがりついたお角は、
「さあ、こうしていれば、わたしゃこの船の船玉様さ、指でもさしてごらん、罰《ばち》が当るよ。乗合がみんな死んで、わたし一人が助かるんだろう。いやなこった、いやなこった、人身御供なんぞは御免だよ」
こう言って凄《すさま》じき啖呵《たんか》を切ったけれども、憐《あわれ》むべし、このとき吹き捲《まく》った大波は、お角のせっかくの啖呵を半ばにして、船もろともに呑んでしまいました。
五
その翌日の朝は、風の名残《なご》りはまだありましたけれど、雨もやみ、空も晴れて、昨夜の気色《けしき》はどこへやらという天気であります。
洲崎《すのさき》の、もと砲台の下のいわの上に立って、しきりに遠眼鏡《とおめがね》で見ている人がありました。
「清吉」
「はい」
「お前の眼でひとつこの遠眼鏡を見直してもらいたい、拙者の眼で見ては、どうも人の姿のように見える」
「お前様の眼で見て人間ならば、わたしの眼で見ても、やっぱり人間でございましょうよ」
と言って、清吉と呼ばれた若い男が、巌《いわ》の上に立っていた人から遠眼鏡を受取りました。受取って危なかしい手つきをしながら、眼のふちへ持って行って、
「なるほど、人間でございますね、人間が一人、浜の上へ波で打ち上げられているようですね」
「もし、そうだとすれば、このままには捨てて置けない」
と言って、再び清吉の手から遠眼鏡を受取った巌の人は、駒井甚三郎でありました。前に甲府城の勤番支配であった駒井能登守、後にバッテーラで石川島から乗り出した駒井甚三郎であります。
あの時に、吉田寅次郎の二の舞だといって、横浜沖の外国船へ向けてバッテーラを漕ぎ出させて行ったはずの駒井甚三郎が、こうして房州の西端、洲崎の浜に立っていることは意外であります。
それで傍《かたわら》にいる清吉と呼ばれた男も、あの時バッテーラの艪《ろ》を押していた男であります。二人はあの時、目的通りに外国船へ乗り込むことができなかったものと思われます。外国船へ乗り込むことができなかったものとすれば、いつのまにここへ来てなにをしているのだろう。しかし、いまはそれらを調べるよりは、遠眼鏡の眼前に横たわる人の形というものが問題です。昨夜あれほどの暴風雨であってみれば、海岸に異常のあるのはあたりまえで、それを検分するがために、甚三郎は遠見の番所から出て、わざわざ遠眼鏡をもって、この巌の上に立っているものと思わなければならないのです。
「そうですね、行ってみましょうか」
清吉が鈍重な口調で、甚三郎の面《おもて》をうかがうと、甚三郎は遠眼鏡を外《はず》して片手に提げ、
「行こう」
「おともを致しましょう」
そうして二人は巌の上から駆け下りました。甚三郎は王子の火薬製造所にいた時以来の散髪と洋装で、清吉もまた髷《まげ》を取払って、陣羽織のような洋服をつけています。二人とも、足につけたのは草鞋《わらじ》でも下駄でもなく、珍らしい洋式の柔らかい長靴でありました。
二人ともこうして砲台下を南へ下りて、海岸づたいに走り出しました。
「平沙《ひらさ》の浦は平常《ふだん》でも浪の荒いところですから、あんな暴風雨《あらし》の晩に、一つ間違うと大変なことになりますね」
「左様、平沙の浦には暗礁《あんしょう》が多いから、晴天の日でも、ああして波のうねりがある、漁師たちも恐れて近寄らないところだが、もし、あれが人間であるとすれば、洲崎沖あたりで船が沈み、それが岸へ吹寄せられたものであろう、おそらく土地の漁師などではあるまい」
「そうでしょうかね、もし、房州通いの船でも沈んだんじゃないでしょうか」
「或いはそうかも知れん」
遠見の番所の下から、洲崎の鼻をめぐって走ること五六町。
「ああ、やっぱり人だ」
「なるほど、人間ですね」
二人は、その見誤らなかったことを喜びもし、また悲しみもし、その浜辺に打上げられた人間のところをめがけて、飛ぶように走《は》せつけました。
磯に打上げられている人間は、女でありました。もとよりそれは息が絶えておりました。着物も乱れておりました。肌もあらわでありました。けれども、身体《からだ》そのものは極めて無事なのであります。それは波に打上げられた
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