のつもりでやってくれ、いいかい」
 大きな声で怒鳴りました。
「おーい」
 水主《かこ》や荷揚《にあげ》が腕を揃えて帆を卸《おろ》しにかかろうとする時に、※[#「風+(火/(火+火))」、第3水準1−94−8]弗《ひょうふつ》として一陣の風が吹いて来ました。
「あ、こいつは堪らねえ」
 その沫《しぶき》を浴びた者が、荷物の蔭へ逃げ込むと、
「上からも落ちて来たようだぜ」
 果して水は、横から吹きかけるのみではありません。
 真暗になった天《そら》から、パラパラと雨が落ちて来たのを覚《さと》った時分に、船は大きな丘に持ち上げられるような勢いで辷《すべ》り出しました。そうして或るところまで持って行かれるとグルリ一廻りして、どうッと元のところへ戻されて行くようです。
「さあ、いけねえ」
 乗合はそれぞれしっかりと、手近なものへ捉《つか》まりました。
「下へ降りておくんなさい、急いじゃ駄目だ、この綱へつかまって静かに、静かに」
 船頭と親仁《おやじ》は声を嗄《か》らして乗客を一人一人、船の底へ移します。船の底の真暗な中へ移された二十三人の乗合は、そこで見えない面《かお》をつき合せて、
「どうも、あたしゃ、この暴風《しけ》というやつが性《しょう》に合わねえのさ。だからいったい、船は嫌いなんですがね、都合がいいもんだから、つい、うっかりと乗る気になって、こんなことになっちゃったんでさあ。困ったなあ。どうでしょう、皆さん、間違いはありゃしますまいねえ」
 おどおどした声で不安を訴えるものがあると、また一方から、
「なあに、大したことがあるもんですか、どっちへ転んだって内海《うちうみ》じゃございませんか、これだけの船が、内海で間違いなんぞあるはずのものじゃございませんよ」
 存外おちついた声でそれをなだめるものもあります。
「ですけれどもねえ、内海だからといって風や波は、別段にやさしく吹いてくれるわけじゃありますまいからね。昔、日本武尊様《やまとたけるのみことさま》が大風にお遭いになったのはこの辺じゃございますまいか。あの時だってあなた……あの通りの荒れでござんしょう」
 情けない声をして、太古の歴史までを引合いに出してくるから、
「ふ、ふ、ふ、あの時はあの通りの荒れだったといったってお前さん、あの時の荒れを見て来たわけじゃござんすまい、第一あの時代と今日とは、船が違いまさあ、船が……」
と言った時に、その船が前後左右からミシミシミシと揉《も》み立てられる音に、一同が鳴りを静めてしまいました。
 暫らくは、うんが[#「うんが」に傍点]の声を揚げる者がありませんでした。外はどのくらいの荒れかわからないが、今まで木の葉のように弄《もてあそ》ばれていた船が、グルグルと廻りはじめたかと思うと、急にひとところに停滞して、何物かに揉み砕かれているらしい物音です。
 そこで、「船が……」と言ったものから真先に口を噤《つぐ》んでしまって真暗な中に、おのおの面《かお》の色を変えたが、幸いに、船は揉みほごされて凝《こ》りを取られたように、真一文字に走り出したらしい。どこへ走り出すのか知らないが、ともかく、揉み砕かれるよりは走り出したのが、いくらかの気休めにはなったと見えて、
「船は違いましょうけれど、風は昔も今も変りませんからね」
 今度は誰も返事をする者がありません。船は、やはりミシミシと音を立てながら、矢のように進んで行くらしい。
「いよいよという時は、なんだってじゃあありませんか、みんな、それぞれ持っているいちばん大切なものを一品ずつ海の中へ投げ込むと、それで風が静まるというじゃありませんか。身につけた大切なものを、わだつみの神様に捧げると、それで難船がのがれるというじゃありませんか。もし、そういうことになったら、私共あ、私共あ……」
 その時に、甲板の上、ここから言えば天井の一角から、不意に強盗《がんどう》が一つ、この船室へつりさげられて来ました。それは鉄の輪を以て幾重にもからげて、どっちへ転んでも、壊れもしなければ油もこぼれないように工夫してある強盗が、天井の一角から下って来ると、その光を真下に浴びていたお角の姿がありありと浮き出して、二十余人の他の乗合は、影法師のように真黒くうつッて見えます。
「風が変った、丑寅《うしとら》が戌亥《いぬい》に変ったぞ、気をつけろやーい」
 船の上では船員が、挙げてこの恐ろしい突発的の暴風雨と戦っています。こう言って悲痛な叫びを立てた船頭の声は、山のような高波の下から聞えました。
 水主《かこ》も楫取《かじとり》もその高波の下を潜って、こけつ転《まろ》びつ、船の上をかけめぐっていたのが、この時分には、もう疲れきって、帆綱にとりついたり、荷の蔭に突伏《つっぷ》したりして、働く気力がなくなっていました。事実、もう、積荷を保護しようの、船の方向を誤るまいのという時は過ぎて、飛ぶだけのものは飛ばしてしまい、投げ込むほどのものは投げ込んでしまい、船の甲板の上は、ほとんど洗うが如くでありました。
 ただ船の上にもとのままで残っているのは、帆柱一本だけのようなものです。けれども、こうなってみると、その帆柱一本が邪魔物です。その帆柱一本あるがために、よけいな風を受けて、船全体が帆柱に引きずり廻されているような形になります。ただ引きずり廻されるのみならず、それがために、ほとんど船が覆《くつが》えるか、または引裂けるように、帆柱のみがいきり立って動いているとしか思われません。順風の時は帆を張って、船の進路を支配する大黒柱が、こうなってみると、船そのものを呪《のろ》いつくさねば已《や》むまじきもののように狂い出しています。
 船の底では、たかが内海だと言って気休めのようなことを言っていたが、上へ出て見れば、内も外もあったものではありません。
 風はもとより、内と外とを境して吹くべきはずはないが、海もまた、内と外とを区別して怒っているものとも覚えません。いったい、どこをどう吹き廻され、或いは吹きつけられているのだか、ただ真暗な天空と、吼《ほ》え立てる風と、逆捲《さかま》く波の間に翻弄《ほんろう》されているのだから、海に慣れた船人、ことに東西南北どちらへ外《そ》れても大方見当のつくべき海路でありながら、さっぱりその見当がつかないのであります。ややあって、
「やい、外へ出ろ、外へ出ろ、只事《ただごと》じゃねえぞ、お姫様の祟《たた》りだ。さあ、帆柱を叩き切るんだ、帆柱を。斧を持って来い、斧を二三挺持って来い。それから、苫《とま》と筵《むしろ》をいくらでもさらって来い、そうして、左っ手の垣根から船縁《ふなべり》をすっかり結《ゆわ》いちまえ、いよいよの最後だ、帆柱を切っちまうんだ」
 帆柱の下で躍り上って、咽喉笛《のどぶえ》の裂けるほどに再び叫び立てたのは船頭です。ひとしきり烈しく吹きかけた風が、帆柱を弓のように、たわわに曲げて、船は覆《くつが》えらんばかり左へ傾斜しながら、巴《ともえ》のように廻りはじめました。この声に応じて、
「おーい、おーい」
 むくむくと、波風を潜って、一人、二人、三人、四人、船頭の許まで腹這いながら走《は》せつけて来ます。走せつけて来た彼等は船頭の耳へ口をつけ、船頭は手を振り、声を嗄《か》らして、何事をか差図をします。やがて、これらの船人はまた右往左往に船の上を走りました。或る者は筵《むしろ》をさらって左手の垣へ当てて結え、或る者は筵をかかえて船縁へ縋《すが》りつく。
 この間に、帆柱からやや離れて上手《かみて》へ廻った背の高いのが、諸手《もろて》に斧を振り上げて、帆柱の眼通り一尺下のあたりへ、かっしと打ち込む。
 風下にそれを受けた、背の低いのが、それより五寸ほどの下をめがけて、かっしと打ち込む。両々この暴風雨《あらし》の中で斧を鳴らして、かっしかっしと帆柱へ打ち込みます。暴風雨はいつか二人の腰を吹き倒して、二人は幾度か転げ、転げてはまた起き直り、かっしかっしと打ち込んではまた転びます。
 やがて背の高いのが、斧を投げ捨てたと見ると、腰に差していた脇差を抜いて、はっしはっしと帆綱に向って打ち下ろすと、斧で打ち込んでおいた帆柱の切れ目が、メリメリと音を立てて柱は風下へ、さきに苫《とま》や筵《むしろ》を巻きつけておいた船縁《ふなべり》へ向って、やや斜めに※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と落ちかかりました。
 こうして船の底へ下りて来た船頭の姿を見ると、真黒くなって呻《うめ》いていた二十余人の乗合は、一度に面《かお》を上げて、
「おい、船頭さん、いったいどうなるんだね、ここはどこいらで、船はどっちへ走ってるんだね、大丈夫かね、間違いはないだろうね」
「皆さん、お気の毒だがね……」
「エ!」
「今日の暴風《しけ》は只事じゃあございませんぜ、永年海で苦労した俺共《わっしども》にも見当がつかなかったくれえだから、こりゃ海の神様の祟《たた》りに違えねえ」
「エ!」
「もう船の上で、やるだけの事はやっちまいましたよ、積荷もすっかり海へ投げ込んでしまった、わっしどもも髷《まげ》を切ってしまった、帆柱も叩き切っちまった、そうして船はもう洲崎沖《すのさきおき》を乗り落してしまった」
「何だって? 洲崎沖を乗り落したんだって? それじゃあ、もう外へ出たんだな」
「うむ、もうちっとで外へ出ようとして、巴を捲いているんだ」
「南無阿弥陀仏」
 中から一人、跳り上って念仏を唱えるものがありました。それを音頭として、つづいて題目を声高らかに唱え出すものがあります。四辺《あたり》かまわず喚《わっ》と声を上げて泣き立てる者もありました。
「まあまあ、皆さん、まだ脈はあるんだからお静かになせえまし、気を鎮《しず》めておいでなさいよ……ここでひとつ、一世一代の御相談が始まるんだ。というのはね、今いう通り、どうもこりゃあ人間業じゃあござんせんよ、たしかに海の神様に見込まれたものがあるんだ、それで、海の神様が、いたずらをなさるんだから、海の神様をお鎮め申さなけりゃ、この難を逃《のが》れっこなし。海の神様というのは、竜神様のことよ。こりゃあ今に始まったことじゃねえのさ、大昔の日本武尊様でさえ、この神様につかまっちゃあ、ずいぶん悩まされたもんだ。だから、その海の神様に何か差上げなけりゃア、この御難は逃れっこなし。どうです皆さん、気を揃えて、ひとつその相談に乗っておくんなさいまし」
 暴風雨《あらし》に打たれたままの赤裸《あかはだか》で、腰帯に一挺の斧を挿んで、仁王の立ちすくんだような船頭が、思いきった顔色をしてこう言って相談をかけると、
「いいとも、いいとも、今もそのことで噂《うわさ》をしていたところだ、難船の時には、自分の身についているいちばん大事なものを海へ投げ込むと、竜神様のお腹立ちがなおるということだから、わたしゃあもう、この胴巻ぐるみ投げ込むことに、こうしてちゃんと了見《りょうけん》をきめてるんですよ」
「わたしゃあまた、ここに持っているこの金ののべの煙管《きせる》が、親ゆずりで肌身はなさずの品でござんすが、これをわだつみの神様に奉納するつもりで、こうして出して置きますよ」
「わしゃまた……」
「まあ待って下さい、皆さん、そんな物を纏《まと》めて投げ込んでみたって、この荒れは静まらねえよ」
「それじゃ、どうすればいいんだ」
「この船でいちばん大切なものを、たった一つ投げ込めばそれでいいでさあ」
「エエ! この船でいちばん大切な、たった一つの物というのは、そりゃ何だ」
「それがなあ……お気の毒だがなあ……」
と言って船頭は強盗《がんどう》をかざして、凄い眼をしてお角の面《かお》をじっと睨《にら》みながら、
「人身御供《ひとみごくう》ということですよ」
「エ、人身御供?」
「昔、日本武尊様が、この海で難儀をなすった時の話だ、橘姫様《たちばなひめさま》という女の方が、お身代りに立って海へ飛び込んだことは先刻御承知でござんしょう、それがために尊様《みことさま》をはじめ、乗合の家来たちまで、みんな命が助かったのだ、つまり橘姫様のお命
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