はい、ごらんの通り盲人でございますから、勘がよろしうございますから、それがわかりましたのでございます。こうして抱き締めて、苦しがっているところを刀を抜いて、一突きに突いて、なぶり殺しにしていたところが、私には、はっきりとわかりました」
「ナニ、お前は、いよいよ不思議なことを言う盲人だ」
検視の役人は米友の訊問を打捨てて、弁信の糺問《きゅうもん》にとりかかろうとします。お蝶は傍でハラハラするけれども、盲目の悲しさに、弁信は一向、役人の権幕《けんまく》を見て取ることができずに、
「私にも、あの時の心持が自分ながら不思議でなりませぬ、ナゼ、それと知ってあの時に、大きな声をして、あの人を驚かしてやらなかったのか、その心持がどうしてもわかりませんのでございます」
「いよいよ以て、お前は不思議なことをいう盲人だ、お前のその勘で見たことを、逐一《ちくいち》言ってみるがよい」
「ヘエ、申し上げましょう、お笑いになってはいけません、私の勘のいいことは、初めての人様はみんな本当になさらないことが多いんですから、どうぞ笑わないでお聞き下さいまし。それはこんなわけでございます、殺されたその女の方は、この近処の稲荷様へ願がけに参ったものらしうございますね、その帰りをあの悪者が待ち受けていたものでございます、そうして通りかかったところを柳の蔭から出て、ぐっとこうして羽掻締《はがいじ》めにしてしまったから、女の方《かた》は何も言うことができなかったんだろうと思われます、それとも、あんまり怖いから、つい口が利けなくなってしまったのかも知れません、それから暫くして、お前は幾つだ、と悪者が聞きました時に、女の人が十九だと申しました。それからのことは申し上げられません、私がぼんやりしてしまったのでございます、何が何だかエレキにかけられたように私は、それを聞きながら、咽喉《のど》がつまって一言も出ないで、立ち竦《すく》んでしまったんでございます。ところが、わからない上にもわからないことは、その悪者が病人なんでございますよ、それが全く不思議でございます、歩くにさえやっと息を切って歩く病人でございます、その病人が、あなた、やっぱり、ああして辻斬に出て歩きたがるんですから、ずいぶん腕は利いているんでございましょう。それにあなた、あれは、ただ人を斬ってみたいという辻斬とは全く違います、ただ斬っただけでは足りないんでございます、ああして嬲《なぶ》り殺《ごろ》しにしなければ納まらないのでございます、苦しがらせて殺さなければ、虫が納まらないというものでございましょう、全く怖ろしいものです。それを私が、こちらに立って、ちゃあんと手に取るように聞き込みながら、それで一言半句も物が言えなかったのは、いま考えると私が怖かったからでございます、もしあの時に、私が何か言おうものならば、きっと私が殺されてしまいます、私が殺されなければ、このお蝶さんが殺されてしまいます、ずいぶん離れてはいましたけれども、トテモ逃げる隙なんぞはありゃしません、それで私はスクんでしまいました、動けなくなったのは、自分の身が危ないからでございますね、お蝶さんがかわいそうだからでございますね。そのうちあの女の人が、なぶり殺しに逢ってしまって、悪者は右手の方へと逃げて行きました、まもなくとんとんと人の足音でございました、それが、友造さんとおっしゃるそのお方で、その時になって初めて、私の身体からエレキが取れて自由になりました。悪者をお探しになるならば、それは病人のお武家で――ああ、もう一つ肝腎なことを申し忘れました、その病人の悪者は、私と同様の盲目《めくら》でございますよ、病人で盲目で、そうして辻斬をして歩きたがるのですから、全く、今まで私共は聞いたことも、むろん見たこともない悪者なんでございます」
弁信が順を逐《お》うてスラスラと述べ立てるのを、役人も、辻番も、お蝶も、酔わされたように聞いていたが、なかにも米友が、
「あっつ、ムクがいねえ、ムクがどこかへ行ってしまった」
いまさらに気がついて、再び地団駄を踏みました。
十九
その翌朝になって、弁信、お蝶、米友の三人ともに、役所から許されて帰ることになりました。
一旦、鐘撞堂新道《かねつきどうしんみち》のお蝶の主人の家へ引取った米友は、それから出直して、どこへ行くともなしに歩きながら、
「どうも、わからねえ」
その面《おもて》に一抹の暗雲がかかって、しきりに首を傾けながら歩くのです。ついには棒を小脇《こわき》にかかえたまま、両腕を組んで、
「わからねえ、わからねえ」
やがて辿《たど》りついたのは、例の弥勒寺の門前であります。門へ入ろうとする途端に、
「やあ、ムク、ここにいたのか」
出会頭《であいがしら》にバッタリと逢ったのは、昨夜柳原の土手で別れたムク犬であります。
「ムク、昨夜《ゆうべ》、手前《てめい》なんだっておいらを置いてけぼりにして、どこかへ行っちまったんだ、先廻りをしてこんなところへ来ているとは人が悪《わり》いな、人じゃなかった、犬が悪いんだ――だが、お前は良い犬だ」
米友はムク犬の頭を撫でてやりました。ムク犬は米友に従って薬師堂の裏手へ廻ると、そこで米友がピタリと足を留め、
「なるほど、この百日紅《さるすべり》の木がいい足場になるんだ、この枝を伝わってああ行くと、塀を躍《おど》り越すなんぞは盲目《めくら》にもできらあな。よし、今日はひとつ、あの枝をぶち落しといてやれ、どうなるか」
板塀の上から枝を出した百日紅の樹を、しきりに睨《にら》んでいました。
「だが、やっぱり、わからねえことは、わからねえ」
米友は、百日紅の枝を仰ぎながら、ここまで来ても、やっぱり思案に暮れて、いよいよその面《おもて》を曇らしています。
実際、このごろ中は、米友の頭では解釈しきれないことが起っているに相違ないのです。それで米友はこのごろ中、毎晩のように、夜中になると刎《は》ね起きて、例の手槍を肩にして外へ飛び出します。飛び出す時の米友の面《かお》は、
「ちぇッ、また出し抜かれたな」
という表情で、或る時は町家の軒下をくぐり、或る時は屋根の上を躍り越えたりして、深夜の市中を走ります。たしかに、何者かを追蒐《おっか》けて出たのだが、その帰り来った時には、いつも呆然自失《ぼうぜんじしつ》です。何物をも認めることなくして出かけ、何物をも得るところなくして帰るのです。帰り来ると、がっかりして、囲炉裏《いろり》の傍に座を構えながら、枕屏風《まくらびょうぶ》を横目に睨んで、
「ちぇッ」
舌を鳴らして額の皺《しわ》を深くしながら、火を焚きつけることが例になっているのであります。
昨夜――むしろ今暁のことは例外でありました。今まで、そうして深夜に物を追蒐けて出ても、その当の目的とするものを何もつかまえては帰らなかったように、自分も、夜番にも、辻番にも、尻尾《しっぽ》を押えられるようなことはなしにここまで来たが、昨夜はついに、辻番と検視の役人の前に立たねばならなくなりました。
しかし、それは、鐘撞堂新道の相模屋の雇人であるということで、お蝶の巧妙な証明も役に立って無事に釈放されて、今になって帰っては来たものの、昨夜、家を飛び出した時の要領は、依然としてその要領を得ないで帰っては、空《むな》しく百日紅《さるすべり》の枝に向って、その余憤を漏らすというようなわけでありました。
その時に、板塀の中で釣瓶《つるべ》の音がします。誰か水を汲んでいるに違いない。そこで米友は、板塀の節穴から中を覗《のぞ》きます。
長屋の裏庭の井戸ばたで、水を汲んで面《かお》を洗っているのは、机竜之助でありました。
「ふーん」
それを節穴から覗いた米友は、やっぱり呆《あき》れ返った面をして、嘲笑をさえ浮べました。
手拭で面を拭いてしまった竜之助は、その手拭を腰にはさんで、盥《たらい》の水を流しへザブリとこぼし、それからまた手探りで釣瓶を探って、重そうに水を釣り上げると、それを盥にあけておいて、縁側の方へ歩いて行く。
「ふーン、ばかにしてやがる」
米友がその後ろ姿に冷笑を浴びせている間に、竜之助は縁側まで行くと、そこへ絡《から》げて置いた両刀を携えて、井戸端へ帰って来るのであります。そうして、刀の柄《つか》だけをザブリと盥の中へ入れて、それをしきりに洗っているもののようです。柄だけを洗っているのか、或いは中身の血のり[#「のり」に傍点]でも落しているのか、そこは井戸側の蔭になって、よく見ることができませんけれども、やがて、すっくと立ち上って、両刀を小腋《こわき》にして、憂鬱極まる面《おもて》をうなだれて、悄々《しおしお》と縁側の方に歩んで行く姿を見ると、押せば倒れそうで、いかにも病み上りのような痛々しさで、さすがの米友が見てさえ、哀れを催すような姿なのであります。
「あいつは幽霊じゃねえのか知ら、どうもわからねえ」
そんな、やつやつしい姿で縁側のところまで辿りついた竜之助は、そこへ両刀をそっとさしおいて、日当りのよいところの縁側へ腰をかけました。だから、ちょうど、米友の覗いている節穴からは正面にその姿を見ることができます。その蒼白《あおじろ》い面《かお》を、うつむきかげんに、見えない目で大地のどこやらを注視しながら、ホッと吐息をついている。その呼吸までが見るに堪えないほどの哀れさであるけれども、日の光は、うららかといっていいくらいのかがやいた色で、この人のすべてを照らしておりました。
「おや?」
この時に、また米友を驚かせたものがあります。それは、今まで自分の身の辺《まわり》にいたムク犬が、いつのまにどこをくぐってか、もう庭の中へ入り込んでいて、しかも、極めて物慕わしげに、竜之助の傍へ寄って行くことであります。
ムクが近寄ると、竜之助がその手を伸べて頭のあたりを探って撫でてやると、ムクは、ちゃんと両足を揃えて、竜之助の傍へ跪《ひざまず》きました。
竜之助は何か言って犬の頭へ手を置いて、犬と一緒に仲よく日向ぼっこをしている体《てい》です。
これは米友にとっては、非常なる驚異でありました。ムクは、そうやすやすと一面識の人に懐《なつ》くような犬ではない。彼は善人を敵視しない代りに、悪意を持った者に対しては、ほとんど神秘的の直覚力を持った犬であります。まあ、伊勢から始まって、この江戸へ来ての今日、ムクがほんとうに懐いている人は、お君と、おいらと、それからお松さん――その三人ぐらいのものだと思っている。しかるに、いま自分の傍を離れて、かえって、見も知りもせぬ、あの奇怪極まる盲者《もうじゃ》の傍へ神妙に侍《はべ》っているムクの心が知れない。
米友は何か知らん、胸騒ぎがしました。じっとしていられないほどに惑《まど》わしくなりました。声を立ててムクを呼び立ててみようとして、身を屈《かが》めて、手頃の小石を拾い取るや、右の手をブン廻すと、小石は風を切って庭の中に飛んで行きました。
「誰だ、いたずらをするのは」
「おいらだ、おいらだ」
米友は百日紅《さるすべり》の枝を伝って、塀を乗り越してやって来ました。米友の投げた小石をそらした竜之助は、刀を抱えて、障子をあけて、家の中へ入ってしまいました。
「ムク」
そのあとで、徒《いたず》らに眼をパチパチさせた米友は、持っていた杖の先でムクの首のあたりを突いて、
「お前は家へ帰れ」
そう言ってから、いま竜之助があけて入った障子を細目にあけて、
「おい先生、どうしてるんだ、寝てしまったのかい」
それでも返事がないからズカズカと上って行きました。それで枕屏風の上から中を覗き込んで、
「おい先生、お前、昨夜《ゆうべ》はどこへ行った」
その言葉は、米友としても突慳貪《つっけんどん》であります。
「どこへも行かない」
「冗談いっちゃいけない、今度という今度こそは、すっかり手証《てしょう》を見たんだ。お前は、昨夜辻斬をしたな」
「そんなことがあるものか」
「ねえとは言わせねえ。驚いちゃったよ、その身体でお前が毎晩、辻斬に出るというんだ
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