「十九……名は何というのだ」
「藤と申します」
「なんで、この夜更けに独《ひと》り歩きをする」
「御信心に参りました」
「どこへ行った」
「杉の森の稲荷様へ願がけに参りました」
「何の願がけに」
「それは、兄が病気でございますから」
「その兄は幾つになる」
「あの……二十歳《はたち》でございます」
「この夜更けに、丑《うし》の刻参《ときまい》りをするほど、その兄が恋しいのか」
「エ……」
「このごろのような物騒な夜道に、しかもこの淋しい柳原の土手を若い女、たった一人で出かけたのを、お前の親たちは承知か」
「いいえ、誰にも内密《ないしょ》でございます」
「そうして、お前は死ぬほどにその男が恋しいのか」
「何をおっしゃるんでございます、どうぞ、お助け下さいまし、ここをお放し下さいまし」
「本当のことを言え」
「それが本当でございます、決して嘘を申し上げるような者ではございません」
「嘘だ、お前は淫奔者《いたずらもの》だ」
「いいえ、左様なものではございません」
「淫奔者に違いない」
「あ、何をなさるんでございます、あなたはほんとうに、わたしを殺して――」
 女は身悶《みもだ》えして、からみついている蛇の口から逃れようとするが、いよいよそれは、しっかりと巻き締めて、骨身《ほねみ》に食い入るようです。
「苦しいか」
「く、苦しうございます」
「さあ、もっと苦しがれ」
「死にます、あ、あ、息が絶えてしまいます、死んでしまいます」
「締め殺してくれようか」
「あ、苦しい、苦しい」
「その苦しみを、お前の心中立てする男に、見せてやりたいわい」
「もう、お助け下さい、もうお手向いしませんから、どうぞ命をお助け下さい、この上、あなたは、ほんとうに、わたくしを殺しておしまいなさるんですか、あ、刀を、刀をお抜きになって、それでわたしを殺しておしまいなさるのですか、ああ、いけません、わたくしは、まだほんとうに、殺されたくはございません、生きて、生きていたいのでございます、生きて一目あの人に……生きていなければならないのでございます、もうお手向い致しませんから、その代り、わたくしの命だけはお助け下さいまし、どうなってもようございますから、命だけはお助け下さいまし、あ、あ、あれ――人殺し……」
 女はついに悲鳴をあげました。その悲鳴は忽《たちま》ち弱り果てて、あ、あ、あ、と引く息が波のように、闇の中にのたうち廻っているのが、まざまざと眼に見えるようです。

 石のように立ち尽していた弁信が、その恐怖から醒《さ》めたのは、それから暫く後でありました。
「弁信さん」
 お蝶もこの時に、ようやく口を利《き》けるようになって、
「弁信さん、お前、何を見ていたの」
「わたしゃ、何も見えやしません、ただ、だまって聞いていました」
「何を聞いていました」
「あすこで人が殺されたのを聞いておりました、女の人がなぶり殺しに殺されるのを、だまって聞いておりました」
「何ですって、女の人が殺された? 冗談《じょうだん》じゃありません、嚇《おどか》しちゃいけませんよ」
「嚇しじゃありません、かわいそうに、ぐっと抱き締められて、その上に刀で幾度も抉《えぐ》られました」
「ほんとに、そんな気味の悪いことを言うのはよして下さい、そうでなくってさえ、わたしはお前さんに留められてから、何だか凄《すご》くなって、怖《こわ》くなって堪らないのですもの」
「どうしてまた、私は、あの人を助けて上げられなかったのでしょう」
「あの人だなんて、誰のことなんですよ、誰もいやしないじゃありませんか」
「あ、そうでしたか、お蝶さん、お前さんにはあの声が聞えませんでしたね」
「わたしにゃ、なんにも聞えやしませんよ」
「なぜ、私はあの時に、大きな声をして呼んで上げなかったんだろう、あの人が、あんなに虐《さいな》まれて殺されている間、それをここにじっと立って、だまって聞いていた私の心持が、自分でわかりません」
「ほんとに何を言ってるんでしょうね、弁信さん、お前さんの言うことが、まだわたしにはサッパリわからない」
「私も私で、いよいよ自分の心持がわからなくなってしまいました、ただ、ああして虐まれて若い女の人がなぶり殺しに遭っているのを、遠くに離れて聞きながら、私はそれを助けて上げようとしないで、何かの力ですく[#「すく」に傍点]められて、その音を聞いている間、私もかえっていい心持のようになって、しまいまでだまってそれを聞いていた自分の心持が、自分でわかりません」
「なんだか、私はぞくぞくと凄くなってきましたよ、弁信さん、お前さんのその面《かお》が凄くなってきました、どうしたらいいでしょうね」
「ああ、わたしもどうしていいか、わからない、今までわたしは、こんな心持になったことはありませんから」
「早く帰りましょうよ、早く本所へ帰ってしまいましょうよ」
 この時に行手の方で、騒々《そうぞう》しい人の足音と、声とが起りました。
「今、人殺しと言ったなあ、たしかにここいらだぜ、おいらの僻耳《ひがみみ》じゃねえんだ」
 こう言って駈けて来る人は一人だが、その後ろに附添って、真黒い大きな犬が一頭。
「ムク、ここいらだぜ」
 その声こそは紛《まご》うべくもなき、宇治山田の米友の声であります。
「人殺しと言ったのは、ここいらなんだ、だからおかしいと思ったんだ」
 彼は今、どこにいるのか知らん。先日も両国橋の上へ姿を現わしたところを以て見れば、やはりあの界隈《かいわい》にいるものと見なければなりません。弥勒寺橋《みろくじばし》の長屋にいるものとすれば、まだ机竜之助の世話をしているのでしょう。竜之助の世話をしているといえば、あの男の挙動が、ことにあの身体で夜な夜なの出歩きが、米友の単純な頭を以てどうしても了解ができないで、眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》っていることも、米友としては無理のないことです。
「ああ、いた、いた」
 米友は闇の中に躍《おど》り上って、地団駄《じだんだ》を踏み立てているものらしい。ほどなく二人の辻番と、宇治山田の米友と、盲法師の弁信と、お蝶との五人が、路上に横たわった一つの屍骸《しがい》を取巻いて、弁信を除いての四人の眼は、いずれも火のようになって、提灯をその屍骸につきつけているのであります。
「女だ!」
 米友が叫びました。
「若い女だ、あだっぽい女だ」
 提灯を突きつけている辻番が驚く。
「まあ、かわいそうに」
 お蝶は、さすがに眼をそむけてしまいます。
「斬疵《きりきず》ではない、突いて抉《えぐ》ったものじゃ、みずおち[#「みずおち」に傍点]あたりにただ一箇所」
「左様、ほかには疵らしいものはないようだ、確かに突いて抉ったものだが、刃物は槍か、刀か」
「無論、槍傷ではない刀傷だ、してみると試し斬りではなく、遺恨だろう」
「左様、恋の恨みでこうなったものらしい」
「して、女の素性《すじょう》はいったい何者だ」
「左様、しかるべき町家の娘だな。おい姉さん、お前さん、ちょっとこの着物を見てくれないか」
 辻番は提灯を振向けて、眼をそむけて戦《おのの》いているお蝶を呼びました。
「ちょっと見てくれ、着物の縞柄《しまがら》を、ちょっと見てもらいたいものだ」
「どうしたらいいでしょう、わたしは怖くって……」
 お蝶は慄えながら、それでも再び屍骸の傍へ寄って来て、
「京お召でございます、藍《あい》に茶の大名《だいみょう》の袷《あわせ》、更紗染《さらさぞめ》に縮緬《ちりめん》の下着と二枚重ね……」
 お蝶はようやく着物の縞目だけを見て、こう言いました。
「なるほど」
 辻番の一人は、矢立と紙を出して、お蝶の口書《くちがき》を取ろうとするものらしい。
「帯は茶の献上博多《けんじょうはかた》でございましょうね」
「それから?」
「羽織は黒羽二重《くろはぶたえ》の加賀絞り……」
「なるほど、そうして髪は島田、鼈甲《べっこう》の中差《なかざし》、まあ詳しいことは御検視が来てからのことだ。ところでお前方」
 二人の辻番は、改めて米友、弁信、お蝶三人の者を篤《とく》と見廻し、
「三人のなかで、誰がいちばん先にこの死骸を見つけなすった。いやまあ、後先《あとさき》はドチラでもよいが、拘《かかわ》り合《あ》いだから三人とも、御検視の来るまで控えていてもらいたい、御迷惑だろうがどうも已《や》むを得ん」
 そこへ、また一人の辻番が、菰《こも》をかかえてやって来て、
「エライことが出来たなあ」
 菰を女の屍骸へうちかけて、
「好い女だなあ、恋の恨みだろうか。いったい、ここでやっつけたのか、殺してここへ持って来たのか」
 菰をかぶせてしまうのを惜しそうに、その屍骸を見比べていると、
「エエ、それは殺してここへ運んで参ったのではございません、あの土手の上で、なぶり殺しにして置いて逃げました、殺した人は男には違いありませんけれども、決して恋の恨みではございません、殺したくって、殺したくって、堪《たま》らない人なんでございます、よほど腕の利いた人で、無暗に人が殺したいのです、手にかけておいて、矢の倉の方へ逃げました」
 突然にこう言い出したのは、人数の後ろに超然として、見えない眼をみはっていた弁信であります。
「エ、お前はそれを見ていたのかい」
 辻番もその他の者も驚きました。弁信の言い分があまりに突然であったから、辻番らは呆気《あっけ》に取られているところへ検視の役人が来ました。それで型の如く、年頃、恰好、着類、所持の品、手疵《てきず》の様子を調べた上に、改めて宇治山田の米友に向いました。
「其方《そのほう》のところと、姓名は」
「鐘撞堂新道、相模屋方、友造」
 米友はこう言って名乗りました。
「お前はこの夜更けに何用があって、こんなところへ通りかかった」
「エエ、それは、人を迎えに来て……」
 米友が少々|口籠《くちごも》るのを見て、お蝶が横合いから口を出しました。
「わたしの帰りが遅いから、それでこの人が迎えに来てくれたのでございます」
 そこで検視の役人は、お蝶と弁信をしりめにかけ、
「お前たちはまた何しに、こんな夜更けにここへ通りかかったのだ」
「エエ、それは……」
 お蝶も、その返事に少し口籠ったが、そこは米友よりも上手《じょうず》に、
「この人のお帰りを送って参りましたものでございます、ごらんの通り、この人は眼が不自由なものでございますから」
「お前はどこのものだ」
 検視の役人は改めて、盲法師の弁信に問いかけます。弁信は例の通り泣きそうな面《かお》をして、
「私は本所の法恩寺の長屋におりまする弁信と申して、こうして毎夜毎夜琵琶を弾いて市中を歩いている者でございます、琵琶は平家の真似事を致すんでございます、生れは房州の者でございまして、ついこのごろ、江戸へ出て参ったんでございますから、地理も不案内でございまして……」
「よろしい」
 なお弁信が何事か言おうとするのを、役人は打切って、米友の方に向い、
「友造とやら、もう一度、お前がこの死人を見つけ出した顛末《てんまつ》を述べてくれ」
「それは、前に申し上げた通りなんだ、人殺し――という声が聞えたから、それで飛んで来て見ると、この通りなんだ、そのほかには何もいっこう知らねえ」
「それで、その人殺しという声のした時に、怪しい者の逃げて行く影をみとめたということもないのか」
「真闇《まっくら》で、人の影なんぞはちっとも見えなかった」
 米友が頭を左右に振って、肯《がえん》ぜぬ形をした時に、またしても盲法師の弁信が後ろから、抜からぬ面で口を出しました。
「その人は、確かに向うへ逃げました、この人をなぶり殺しにしておいて、そっと忍び足で両国の方へ――矢の倉というんでございますね、あちらの方へ逃げてしまいました」
「ナニ、矢の倉の方へ逃げた? それをお前は見たのか、お前は盲人《もうじん》ではないか」
 検視の役人は、容易ならぬ眼つきで弁信をながめました。附添いの者は、やはり険《けわ》しい面《かお》で、提灯を弁信に突きつけたが、弁信は一向それを怖れずに、

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