しない。弁信は湿っぽい路次を辿《たど》って、広い通りの方へ歩いて行きました。
清澄の茂太郎が両国へ現われるのと前後して、盲法師の弁信も江戸へ現われました。
ところもあまり遠からぬ法恩寺の長屋に居候《いそうろう》をすることになった弁信は、毎夜、琵琶を掻《か》き鳴らして江戸の市中をめぐります。清澄にいる時分、上方から来た老僧から、弁信は平家琵琶を教えてもらいました。
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「祇園精舎《ぎおんしょうじゃ》の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹《さらそうじゅ》の花の色、盛者必衰《しょうじゃひっすい》の理《ことわり》をあらはす……」
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もとよりそれは本格の平家でありましたけれど、門付《かどづ》けをして歩いて、さのみ人の耳を喜ばすべき種類のものではありません。だからこの盲法師をつかまえて、銭を与えようとする人は極めて乏しいものです。ただでも耳を傾けようとする人すら、極めて少ないものでありました。
どうかすると、しかるべき身分の人が、
「珍らしいな、いま平家を語るものは江戸に十人と有るか無いかだが、その平家を語って、門付けをして歩くのは珍らしい」
と言って珍らしがり、わざわざ自分の屋敷へまで招《よ》んでくれる人がありました。そんな人の与える祝儀が唯一の実入《みい》りで、市中で銭を与える人は、前に言う通り極めて少ないものでありましたけれども、弁信は怠らずに、それを語って歩きます。
この頃、両国で茂太郎の評判が高いのを聞き、もしやと思って今日は出がけに、この軽業小屋を訪ねてみましたけれど、楽屋番はすげ[#「すげ」に傍点]なく断わってしまいました。すげ[#「すげ」に傍点]なく断わられても、大して悄《しょ》げもせずに路次を立ち出でました。
で、どこをどう歩いて来たか、その夜になって、もう琵琶を袋へ納めて背中へ廻し、家路に帰ろうとする気配《けはい》で通りかかったのは、例の柳原河岸《やなぎわらがし》です。
「もし、ちょいと」
河岸の柳の蔭から呼ぶものがありました。呼ばれる前に立ってしまった弁信は、
「はい、どなたか私をお呼びになりましたか」
そう言って例の法然頭《ほうねんあたま》を左右に振り立てました。
「ちょいと」
柳の蔭で、声ばかりが聞えます。その声は若い女の声であります。
「お呼びになったのは私のことでございますか、何ぞ私に御用でございますか」
「そんなに四角張らなくってもいいじゃありませんか、遊んでいらっしゃいな」
「エ、私に遊んで行けと言うんでございますか、あなた様のお宅はドチラでございますか」
「何を言ってるんです、こちらへいらっしゃいよ」
「あの、琵琶を御所望でございましょうな」
「琵琶? そんなものは知りませんよ、そんなことはどうだっていいじゃありませんか」
「いいえ、よくはございません、わたくしは琵琶弾きなんでございますよ、眼が不自由なもんでございますからね、それで、琵琶を弾いて、人様からお恵みを受けているような身の上でございます、琵琶も私のは平家でございますから、薩摩や荒神《こうじん》のように陽気には参りませんでございます、それに、私も未熟者でございましてね、あんまり上手とは申し上げられないんでございますから、芸人を呼ぶと思召《おぼしめ》さずに、哀れな盲《めくら》を助けると思召してお聞き下さいまし、そうでないと、お腹も立ちましょうと思います」
弁信はこう言って、あらかじめ申しわけをすると、柳の蔭にいた女は笑いこけるように、
「滅多にこんな正直なお方にはぶっつからないのよ。お前さん、もうお帰りのようだが、ドチラへお帰りになるの」
「エエ、私でございますか、私はこれから本所へ帰るんでございますよ、本所の法恩寺の長屋に住んでいる、弁信というものでござんすからね」
「まあ、本所へ帰るの、それじゃ、わたしも少し早いけれど、一緒に帰りましょう」
ずっと前に、宇治山田の米友が、この通りで、同じような女の声で呼び留められたことを御存じの方もございましょう。
柳の蔭から出て来たのは、お蝶と言ったその時の女でございます。
お蝶は、決して醜い女ではありません。もう二十二三になるでしょうか、背がスラリとして色も白く、面《かお》に愛嬌があります。こんなところには珍らしいくらいの女で、明るい世間へ出しても、十人並みで通る女でありました。手拭を頭から被《かぶ》って出て来たお蝶は、弁信の傍へ寄って来て、
「わたしも、本所の鐘撞堂《かねつきどう》まで帰るんですから、送って上げましょうか」
「はい、有難うございます」
お蝶は弁信の案内者になりました。弁信は異議なくその好意を受けて、二人は打連れて淋しい河岸を歩いて行きます。
「弁信さん、あなたは法恩寺様の長屋に、ひとりでいらっしゃるんですか」
「エエ、たった一人でおります、ひとりぼっちでございます」
「御飯の世話なんぞは、誰がしてくれるんです」
「みんな自分でやるんでございます、これから帰ってお茶漬を食べて、それから床を展《の》べて、ゆっくりと足を踏伸ばすのが、私の一日中の楽しみなんでございます」
「眼が不自由で、よくそんなことができますね」
「でも、近所の人様が可愛がって下さる上に、私は御方便に勘《かん》がようございますから、世間並みの盲目《めくら》のように不自由な思いは致しません」
「それでも、病気の時だとか、洗い洗濯だとかいうことはお困りでしょう、悪くなければ、わたしが時々行って、お世話をして上げるけれども」
「悪いどころじゃあございません、どうかいつでもおいでなすって下さいまし、お正午《ひる》前のうちは家にいるんでございますから。法恩寺の長屋へおいでになって、琵琶の盲目とお聞きになれば直ぐにわかりますから」
「それでは明日の朝参りましょう」
「どうぞおいで下さいまし。失礼でございますが、あなたのお家は、本所のどちらでございましたかね」
「わたしのところは本所の鐘撞堂新道《かねつきどうしんみち》なのです、鐘撞堂新道の相模屋という家にいてお蝶というのが、わたしの名前ですからよく覚えていて下さい、そうして、わたしも昼間はたいてい遊んでいますから、お暇の時は話しにおいでなさいな」
「そうでしたか、鐘撞堂新道というのは、わたしのところからそんなに遠い所ではございませんね」
「エ、近いんですよ」
「わたしは、房州の者でございましてね、ほんのツイ近頃この江戸へ参ったものですから、よく案内がわかりませんでございます、それに友達といっても一人も無いんでございますよ。でもね、人様が大へん私を親切にして下さるものですから、そんなに淋しいとは思いませんよ。それに私は、どなたでも人様が好きなんです、何でもいいから人様のためになるようなことばかりして、一生を送って行きたいと思ってるんですよ。そりゃ、出来やしませんよ、なにしろ人間がこの通りでございますし、その上に不具《かたわ》ときていましょう、人様のためになるどころじゃなく、人様の御厄介にならないのがめっけものです。でもね、こうして拙《つたな》い琵琶を弾いて歩きますと、人様が御贔負《ごひいき》をして下すって、自分の暮らしには余るほどのお金が手に入るもんですから、それをみんな善いことに使ってしまいたいと、こう思っておりますんでございます」
「まあ、お前さんはなんという感心な人でしょうね、わたしなんぞも、早くそんな心がけになればいいんですけれど」
「世間のことは、なかなか思うようにはならないものでございますよ。そうして、あなたは鐘撞堂で、何を御商売になすっておいでなさいますね」
弁信はこう言って、お蝶にたずねました。
女は、その返答には困りました。
「そんなことは何だっていいじゃありませんか。それでもね、わたしはお前さんのような人は大好きなのよ」
ともかくも、ちょっと道ばたで行逢った人にしては、あまりになれなれしい物の言い方でありました。しかし、弁信は少しもその相手方を疑うようなことはありません。
「あ、鐘が鳴りましたね、あれは上野の鐘ですね」
弁信がたちどまって、鐘の音に耳を傾けるようでしたが、お蝶にはそれが聞えません。
「あなた、何を言ってるんです、鐘も何も聞えやしないじゃありませんか、上野の鐘がここまで聞えるものですか」
「いいえ、あれは上野の鐘です、ほかの鐘とは音《ね》の色が違います」
弁信は取合わないで、鐘の音を数えていたが、
「ああ、九ツです、もう九ツになりましたね」
「そうでしょう、もうかれこれ、そんな時分でしょうよ」
それで二人はまた歩き出しました。左は土手、右は籾倉《もみぐら》の淋しいところを通って行くと、和泉橋《いずみばし》の土手には一個所の辻番があります。
「どうも御苦労さまでございます、私は本所の法恩寺前の長屋に住んでおりまして、弁信と申しまする琵琶弾きでございます、おそくなりましてまことに相済みませんでございます」
こう言って、先方から何も言われない先に弁信は丁寧に名乗って、お辞儀をしてその前を通り過ぎました。お蝶はその馬鹿丁寧をおかしいと思いながらも、盲目《めくら》だというのに、どうしてここに辻番のあることだの、辻番に人がいるかいないかだの、それがわかるのだろうかと不思議に思います。それのみならず、さきに鐘の音に耳を傾けた時も、自分にはどこで、どんな鐘が鳴ったのだか、さっぱりわからないうちに、この琵琶弾きはそれを聞き取った上に、確かにこれは上野の鐘だと極《きわ》めをつけてしまったのも不思議です。盲は目が見えない代りに、勘がいいものだというが、それにしてもこの琵琶弾きは、あんまりに勘が好過ぎると思いましたから、
「弁信さん、お前さんは、なんだってあんな馬鹿丁寧に辻番へ挨拶をするんです、第一、番人がいやしないじゃありませんか」
わざとこう言って試してみると、
「いいえ、そんなことはございません、二人おいでになりましたよ、一人の方は番所の中に、一人の方は、たしか棒を持って、私たちを咎《とが》めようとして、こっちへおいでなさるようだから、私は、その前にああいって、ちゃんと申しわけを致してしまいました」
弁信に図星《ずぼし》を指されて、
「まあ、なんてお前さんは勘がいいんでしょう」
お蝶は舌を巻いて、暗いところから弁信の面《おもて》を見直しました。それは、もしや、この按摩が偽盲《にせめくら》で、そっと目をあいているからではないかと思ったからです。しかし、盲目であることに正銘《しょうめい》偽りのないのは、その面《かお》つきでも、足どりでも、また杖のつきぶりでも、充分に信用ができるのであります。
こうして二人は、郡代屋敷のところまで来てしまいました。その時に、盲法師の弁信が、凝然《じっ》として郡代屋敷の塀際に突立ってしまいました。
「あ、あ、あ、あぶない」
杖を以て、前へ出ようとするお蝶を、弁信はあわてて支えました。
「どうしたの」
「いけません、いけません」
弁信は必死に杖を以てお蝶を支えて、一歩も進ませないようにしながら、己《おの》れは身を戦《おのの》かしつつ立っていたのであります。
「どうしたんですよ」
「誰かいます、行ってはいけません、行くと殺されます」
「エ!」
お蝶は弁信の傍へ、固くなって立ちすくみました。
土手の蔭に、蛇がからみ合っているように、二つの人影が一つになって、よれつ、もつれているのを弁信はむろん見ることができません。お蝶もそれを知るには、まだあまりに遠い距離でありました。
しかしながら、土手の蔭の二つの人影は、からみ合って、そうして、おのおの炎のような息を吐いていることはたしかです。
「お前の歳は幾つだ」
炎のような息を吐きながら、一つの影が上から押しかぶせるように言いました。
「どうぞ御免下さい」
抱きすくめられているのは、やっぱり女の声でありました。
「うむ、歳は幾つだ、それを言え」
大蛇が羊を抱き締めたように、ぐるぐると巻いた、その炎の舌のあるじは、まさに男です。
「十九でございます」
女は息も絶々《たえだえ》になっている
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