から。初めは、どうも本気になれなかったんだが、昨夜という昨夜は驚かされちまった」
「誰がそんなことを言った」
「誰が――呆《あき》れ返っちまうな、あんまり白々しいんで呆れ返っちまうよ、現在、おいらが実地を見届けてるんだ、お前はいったいどういう了見《りょうけん》で、あんなことをやったんだ、さあ、返事を聞かせてくれ、返答によっちゃあ、こっちにも了見があるぜ」
「友造、お前の了見というのは、そりゃどういう了見なのだ」
「どういう了見だってお前、無暗に人殺しをする奴は、そのままには置けねえじゃねえか」
「そのままに置けなければどうするのだ」
「ちぇッ」
米友は舌打ちをして、足を二つ三つ踏み鳴らしてから、
「俺《おい》らも槍が出来るんだぜ、槍が」
この時も、その持っていた手槍で、焦《じ》れったそうに畳を突き立てました。
「友造、友造どん」
「何だ」
「お前は先年、甲府にいたことがあるだろうな」
「何を言ってるんだ、甲州へ行っていたことはあるよ」
「その時な」
「うん」
「ある晩のことだ」
「なるほど」
「正月のことだったろうな、寒い晩だ、それに怖ろしく霧の深かった晩なのだ、その晩に甲府の城下に、破牢のあったのを知ってるだろうな、牢破りの」
「知ってる、知ってる、それがどうしたんだ」
「その晩に、お前は甲府の町を、その手槍を担いで一文字に飛び歩いていたろう」
「それに違えねえ」
「その時だ――その時に、お前は命拾いをしているのを忘れやすまいな」
「命拾い? 命拾い?」
米友は、そう言われて仔細らしく小首を傾けたが、ハタと自分の頬《ほっ》ぺたを打って、
「うむ、あれか」
「友造どん、あの時から、わしはお前を知っている」
こう言われた時に、米友が再び躍り上って、
「この野郎!」
と一喝《いっかつ》しました。ここでこの野郎と言った意味はなんだかよくわかりませんが、今まで気のつかなかった疑問が、一時に解け出したような狼狽の仕方で、米友が、
「やい、起きてくれ、起きてくれ、ももんじい[#「ももんじい」に傍点]を煮て酒を飲ませるから、起きてくれ」
机竜之助は蒲団《ふとん》をかぶって、あちらを向いて寝ました。
ももんじい[#「ももんじい」に傍点]と酒とで、米友が誘惑を試みようとしても、起きる気色《けしき》はありません。
「友造どん、甲府でやった辻斬も、このごろ出歩いてやる辻斬も、みんな拙者の仕業《しわざ》だ、あのとき以来、斬ろうとして斬り損ねたのは、お前ぐらいのものだ、このごろもどうかすると、お前を斬ってみたいとも思うが、お前がいないと世話をしてくれるものがないからな」
「冗談じゃない」
米友は眼を円くして、
「恩に被《き》せなくってもいいやな、斬れるものなら、斬ってもらおうじゃねえか」
と言いながら、米友は枕屏風の上から、そろそろと竜之助の枕許《まくらもと》へ這《は》い寄って来ました。
「おっと、危ない」
竜之助は寝ていながら、その片手を伸べて、枕許の刀を押えました。
「おい、先生」
「何だ」
「起きてくれ」
米友は蒲団の上から、寝ている竜之助をゆす[#「ゆす」に傍点]ぶりました。
「聞きてえことがあるんだから起きてくれ、野暮《やぼ》を言うところじゃねえ、お前ほどの腕の者が、人を斬ったからって、それを今ここでかれこれ言うような俺《おい》らじゃねえんだ。斬っていい奴もあるし、斬られちゃ悪い奴もあるんだ、斬られて浮べねえ奴もあるし、斬られて冥加《みょうが》になる奴もあるんだ、はばかりながら宇治山田の米友も、槍にかけては腕に覚えがあるんだぜ、覚えがあるから、こう言っちゃ悪かろうわけはねえんだ。筋が立つところなら、百人でも千人でも斬りねえな、米友も斬りたくなったらずいぶん斬られて上げましょうさ。もし、筋が立たなけりゃ、おいらは、もうお前と一緒にいるのは御免だ、ことによったら、おいらがお前の命を取るぜ、あったらお前を、一人で、こんなところへ抛《ほう》りっぱなしにして置いて、のたれ死をさせるのも業腹《ごうはら》だからなあ」
米友はこう言って、竜之助の枕許で腕組みをしました。
「済まない、友造どん、お前にはなんとも済まないことだが、筋が立つの立たぬのというたち[#「たち」に傍点]の仕事ではないので、拙者というものは、もう疾《と》うの昔に死んでいるのだ、今、こうやっている拙者は、ぬけ殻だ、幽霊だ、影法師だ。幽霊の食物は、世間並みのものではいけない、人間の生命《いのち》を食わなけりゃあ生きてゆけないのだ、だから、無暗に人が斬ってみたい、人を殺してみたいのだ、そうして、人の魂が苦しがって脱け出すのを見るとそれで、ホッと生き返った心持になる。まあ、筋を言えば、そんなようなものだが、このごろはそれさえ、根っから面白くなくなったわい、人を斬るのも、壁を斬るのと同じようにあっけないものじゃ。辻斬が嫌になったら、その時こそ、この幽霊も消えてなくなるだろう、まあ、それまでは辛棒《しんぼう》していてくれ」
竜之助は寝返りも打たないで、洒然《しゃぜん》としてこう言ってのけました。
「うーむ」
枕許に腕を組んでいた宇治山田の米友が、それを聞いて深い息をして唸《うな》り出したが、頓着せず、
「友造どん、お前の槍の手筋はどこで習ったか知らないが、まるで格外れで、それで、ちゃんと格に合っているところが妙だわい。拙者の如きは、これでも幼少より正式に剣を学んだのじゃ、先祖以来の剣道の家に生れて、父と言い、師と言い、由緒の正しいものだ。拙者だけは破格だ、師に就いたけれども師がない、型を出でたけれども型が無い、一生を剣に呪われたものかも知れぬ、生涯、真の極意《ごくい》というものを知らずに死ぬのだ、もし、神妙というところがあるなら、それを知って死にたいものだがな」
竜之助は平然として、こんなことを言い出したが、今日はその述懐に、多少の感慨があるようです。
底本:「大菩薩峠5」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年2月22日第1刷発行
「大菩薩峠6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 四」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
※「陣場ケ原」「小金ケ原」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2002年9月21日作成
2003年7月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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