ざいませんよ」
「不思議だなあ」
 最初から心を静めて観察するの余裕を持っていた駒井甚三郎が、その物音や、気配を察して、人間と動物とを見誤るほどの未熟者ではないはずです。
 科学者であるこの人は、狐に関する迷信の類は最初から歯牙《しが》にかけず、ほんの一座の座興にお角を怖がらせてみたものとしても、人と獣の区別を判断し損ねたということは、己《おの》れの学問と技倆との自信を傷つくるに甚だ有力なものと言わなければなりません。そこで甚三郎は短銃を片手に、ついと立ち上って、畳の上を荒々しく踏み鳴らしました。
 甚三郎が畳の上を踏み鳴らすとちょうど、仕掛物でもあるかのように、それといくらも隔たってはいないところの、囲炉裏《いろり》の傍の揚げ板が下からむっくりと持ち上りました。
「御免なさい」
 甚三郎もお角も呆気《あっけ》に取られてそれを見ると、現われたのは狐でも狸でもなく、一個《ひとつ》の人間の子供であります。
「お前は何だ」
 あまりのことに甚三郎も拍子抜けがして、己《おの》れの大人げなきことが恥かしいくらいでした。
「御免なさい、御免なさい」
と言って子供は、揚げ板の中から炉の傍へ上って来ま
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