の病人が寝ているのでした。
その病人の枕許《まくらもと》へ提灯を突きつけた駒井甚三郎は、
「眠っておいでかな」
低い声で呼んでみました。
「はい」
微かに結んでいた夢を破られて、向き直ったのは女です。かのいたずら[#「いたずら」に傍点]な平沙の浦の磯から拾って来た女であります。
「気分はよろしいか」
甚三郎は提灯を下へ置いて、蝋燭を丁寧に抜き取って、それを手近な燭台の上に立てながら、女の容体《ようだい》をうかがうと、
「ええ、もうよろしうございます、もう大丈夫でございます」
はっきりした返事をして、女は駒井甚三郎の姿を見上げました。
「なるほど、その調子なら、もう心配はない」
甚三郎もまた、女の声と血色とを蝋燭の光で見比べるように、燭台をなお手近く引き出して来ると、
「もし、あなた様は……」
急に昂奮した女の言葉で驚かされました。
「ええ、なに?」
甚三郎が、屹《きっ》と女の面《おもて》を見直すと、
「まあ勿体《もったい》ない、あなた様は、甲府の御勤番支配の殿様ではいらっしゃいませんか」
女は床の上から起き直ろうとしますのを、
「まあまあ静かに。甲府の勤番の支配とやら
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