しない。弁信は湿っぽい路次を辿《たど》って、広い通りの方へ歩いて行きました。
 清澄の茂太郎が両国へ現われるのと前後して、盲法師の弁信も江戸へ現われました。
 ところもあまり遠からぬ法恩寺の長屋に居候《いそうろう》をすることになった弁信は、毎夜、琵琶を掻《か》き鳴らして江戸の市中をめぐります。清澄にいる時分、上方から来た老僧から、弁信は平家琵琶を教えてもらいました。
[#ここから1字下げ]
「祇園精舎《ぎおんしょうじゃ》の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹《さらそうじゅ》の花の色、盛者必衰《しょうじゃひっすい》の理《ことわり》をあらはす……」
[#ここで字下げ終わり]
 もとよりそれは本格の平家でありましたけれど、門付《かどづ》けをして歩いて、さのみ人の耳を喜ばすべき種類のものではありません。だからこの盲法師をつかまえて、銭を与えようとする人は極めて乏しいものです。ただでも耳を傾けようとする人すら、極めて少ないものでありました。
 どうかすると、しかるべき身分の人が、
「珍らしいな、いま平家を語るものは江戸に十人と有るか無いかだが、その平家を語って、門付けをして歩くのは珍らしい」
と言
前へ 次へ
全206ページ中171ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング