、あの美平の屋敷から信州のお諏訪様まで日参りをしたというんですから、足の方もかなり達者でした。私共も足の方にかけちゃずいぶん後《おく》れを取らねえつもりだが、ここから信州の諏訪へ日参りと来ちゃ怖れ入りますね。そんなわけで、これがこの土地の名物、碓氷の貞光の力餅ということになっているんでございます」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、無駄話を加えて力餅の説明をしながら、しきりにそれを焼いては例の片手を上手に扱って二人にすすめると、それをうまそうに食べてしまった南条は、
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、時間はどんなものだな」
「そうでござんすね、もうかれこれいい時分でございましょう」
 三人が同時に頭《こうべ》をめぐらして西の方をながめました。この時分、最夜中は過ぎて峠の宿《しゅく》で、たったいま鳴いたのが一番鶏であるらしい。
「いったい、横川の関所は何時《なんどき》に開くのじゃ」
 五十嵐が言いますと、
「やっぱり、明けの六《む》つに開いて、暮の六つに締まるんでございます」
「そうして今は何時《なんどき》だ」
「一番鶏が鳴きました」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は何か落着かないことがあるらしく、
「間違いはございませんが、念のためですからこれから私が、もう一ぺん峠の宿を軽井沢まで走って見て参ります」
「御苦労だな」
 こうして、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は得意の早足で、峠の宿の方へ向いて行ってしまいました。そのあとで南条は、五十嵐にむかい、
「こんな仕事には誂向《あつらえむ》きに出来ている男だ、何か、ちょっとした危ない仕事がやってみたくてたまらないのだ、小才《こさい》が利いて、男ぶりもマンザラでないから、あれでなかなか色師《いろし》でな、女を引っかけるに妙を得ているところは感心なものだ」
 こんなことを言って笑っていると、五十嵐は、
「女によっては、あんなのを好くのがあるのか知らん、どこかに口当りのいいところがあるのだろう」
「当人の自慢するところによると、あの片一方の腕を落されたのも、女の遺恨から受けた向う創《きず》だと言っている。これと目星をつけた女で、物にならぬのは一人もない、なんぞと言っているところがあいつの身上だ」
 この時分に峠の宿で、また鶏が鳴きましたけれども、夜が明けたというわけではありません。
 いわゆる、碓氷峠《うすいとうげ》のお関所というのは、箱根のお関所と違って、それは山の上にあるのではなく、峠の麓にあるのであります。
 熊《くま》の平《だいら》で坂本見れば、女郎が化粧して客待ちる……というその坂本の宿よりはなお十町も東に当る横川に、いわゆる碓氷峠のお関所があるのであります。
 このお関所を預かるものは安中《あんなか》の板倉家で、貧乏板倉と呼ばれた藩中の侍も、この横川の関所を預かる時は、過分の潤《うるお》いがあったということです。それは参覲交代《さんきんこうたい》の大名の行列から来る余沢《よたく》の潤いであるとのことです。
 けれども、ここを通る参覲交代の大名のすべてを合せても、その余沢は、一加州侯のそれに及ぶものではないとのことであります。
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後共《あとども》は霞引きけり加賀守
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という百万石の大名行列は、年に二回は行われる。その年に二回の加賀様の行列によって、一年の活計を支えるほどの実入《みい》りを得ている者が、幾人あるか知れないということであります。
 それは大抵、五月と九月との両度に行われ、同勢は約千人もあったろうということで、金沢の城中から、鉄砲百挺、弓百挺、槍百筋を押立てて、ここまで練って来た一行が、鉄砲だけは関所を通すことが許されないから、坂本の宿の陣屋に鉄砲倉を立て、そこに預けておき、帰る時は、それを持ち出して国へ帰るということになっているのだそうです。関所でやかましいのは、鉄砲と、そうして女であることはここも他と変ることはなく、徳川幕府にとって頭痛の種であったこの二つの禁物のうちの一つは、そうして封じ込められて、関所を東へは一寸も動くことを許されないでいるが、東から来て西へ抜けようとする女は、まさか倉を立てて蔵《しま》っておくわけにもゆかない代り、かなり厳しい詮議《せんぎ》の下に、辛《かろ》うじて通過を許されるのであります。それは、たとえ百万石の奥方といえども、関所同心の細君の手によって、一応その乳房をさぐられ、それから髪の毛の中を探された上で、はじめて通行の自由を認められる……それが本来の規則であったそうだけれども、そこにも当然抜け道はあって、表面だけの繕いで無事に通行ができるようになり、それらの余徳として、関所役人の懐ろの潤《うるお》いが増してくるようになったとは、さもありそうなことであります。
 その加州侯
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