…これが一生のお別れになるか知れませんでございます」
こう言って、盲法師の弁信は泣きながら、草鞋《わらじ》ばきで、笠はかぶらないで首にかけ、例の金剛杖をついて清澄の山を下ってしまいました。それは暴風雨《あらし》があってから五日目のことで、誰がなんと言っても留まらず、山を下って行く、その後ろ姿がいかにも哀れであります。
九
それとほぼ時は同じですけれども、ところは全然違った中仙道の碓氷峠《うすいとうげ》の頂上から、少しく東へ降ったところの陣場ケ原の上で、真夜中に焚火を囲んでいる三人の男がありました。
一昨夜の暴風雨《あらし》で吹き倒されたらしい山毛欅《ぶな》の幹へ、腰を卸《おろ》しているものは、南条|力《つとむ》であります。この人は曾《かつ》て甲府の牢に囚《とら》われていて、破獄を企てつつ宇津木兵馬を助け出した奇異なる浪士であります。
その南条力と向き合って、これは枯草の上に両脚を投げ出しているのは、いつもこの男と影の形に添うように、離れたことのない五十嵐甲子雄《いがらしきねお》であります。甲府の牢以来、この二人が離れんとして離るる能《あた》わざる※[#「孑+子」、第3水準1−47−54]《ふたご》の形で終始していることは敢《あえ》て不思議ではありませんが、その二人の側に控えて、いっぱしのつもりで同じ焚火を囲んでいるもう一人が碌《ろく》でもない者であることは不思議です。碌でもないと言っては当人も納まるまいが、この慨世憂国の二人の志士を前にしては、甚だ碌でもないというよりほかはない、例のがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵であります。
「その屋敷でござんすか、そりゃこの峠宿《とうげじゅく》から二里ほど奥へ入ったところの美平《うつくしだいら》というところが、それなんだそうでございます。今はそこには人家はございませんが、そこが、碓氷の貞光《さだみつ》の屋敷跡だといって伝えられてるところでございます」
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、いっぱしの面《かお》をして案内ぶりに話しかけると、
「なるほど」
南条力はいい気になって頷《うなず》いてそれを聞いている取合せが、奇妙といえば奇妙であります。ナゼならば、南条力は少なくともこのがんりき[#「がんりき」に傍点]の百なるものの素行《そこう》を知っていなければならない人です。それは甲州街道で、このがんりき[#「がんりき」に傍点]の百が男装した松女《まつじょ》のあとを、つけつ廻しつしていた時に、よそながら守護したり、取って押えたりして、お松を救い出したのはこの人であります。百にしてからが、この人の怖るべくして、狎《な》るべからざる人であり、ともかく自分たちには歯の立たない種類の人であることを、充分こなしていなければならないのに、こうして心安げになって、いっぱしの面をしていることが、前後の事情を知ったものには、どうも奇妙に思われてならないはずです。
ところが、このがんりき[#「がんりき」に傍点]先生は一向、そんなことには頓着なく、
「さあ、焼けました、もう一つお上んなさいまし。南条の先生、こいつも焼けていますぜ、五十嵐の先生、もう一ついかがでございます」
と言って、木の枝をうまく渡して、焚火に燻《く》べておいた餅を片手で摘《つま》み上げ、
「碓氷峠の名物、碓氷の貞光の力餅というのがこれなんでございます」
得意げに餅を焼いて、二人にすすめ、
「何しろ源頼光の四天王となるくらいの豪傑ですから、碓氷の貞光という人も、こちとらと違って、子供の時分から親孝行だったてことでございますよ。親孝行で、そうして餅が好きだったと言いますがね、親孝行で餅が好きだからようございますよ、間違って酒が好きであってごろうじろ、トテも親孝行は勤まりませんや。どうも酒飲みにはあんまり親孝行はありませんね。俺《わっし》の知ってる野郎にかなりの呑抜《のみぬけ》があって、親不孝の方にかけちゃ、ずいぶん退《ひ》けを取らねえ野郎ですが、或る時、食《くら》い酔って家へ帰ると、つい寝ていた親爺の薬鑵頭《やかんあたま》を蹴飛ばしちまいましてね、あ、こりゃ勿体《もったい》ねえことをしたと言ったもんです、それを親爺が聞いて、まあ倅《せがれ》や、お前も親の頭を蹴って勿体ないと言ってくれるようになったか、それでわしも安心したと嬉しがっていると、野郎が言うことにゃ、おやおや、お爺《とっ》さんの頭か、俺《おり》ゃまた大事の燗徳利《かんどっくり》かと思ったと、そうぬかすんですから、こんなのは、とても親孝行の方には向きませんよ。酒飲みがみんな親不孝と限ったわけじゃございませんが、餅の方が向きがようございます。その碓氷の貞光て人は餅が好きで、自分で搗《つ》いては自分でも食い、お袋様にもすすめてね、自分はその餅を食いながら
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