ざいませんよ」
「不思議だなあ」
最初から心を静めて観察するの余裕を持っていた駒井甚三郎が、その物音や、気配を察して、人間と動物とを見誤るほどの未熟者ではないはずです。
科学者であるこの人は、狐に関する迷信の類は最初から歯牙《しが》にかけず、ほんの一座の座興にお角を怖がらせてみたものとしても、人と獣の区別を判断し損ねたということは、己《おの》れの学問と技倆との自信を傷つくるに甚だ有力なものと言わなければなりません。そこで甚三郎は短銃を片手に、ついと立ち上って、畳の上を荒々しく踏み鳴らしました。
甚三郎が畳の上を踏み鳴らすとちょうど、仕掛物でもあるかのように、それといくらも隔たってはいないところの、囲炉裏《いろり》の傍の揚げ板が下からむっくりと持ち上りました。
「御免なさい」
甚三郎もお角も呆気《あっけ》に取られてそれを見ると、現われたのは狐でも狸でもなく、一個《ひとつ》の人間の子供であります。
「お前は何だ」
あまりのことに甚三郎も拍子抜けがして、己《おの》れの大人げなきことが恥かしいくらいでした。
「御免なさい、御免なさい」
と言って子供は、揚げ板の中から炉の傍へ上って来ました。
鼠色をした筒袖の袷《あわせ》を着て、両手を後ろへ廻し、年は十歳《とお》ぐらいにしか見えないが、色は白い方で、目鼻立ちのキリリとした、口許《くちもと》の締った、頬の豊かな、一見して賢げというよりは、美少年の部に入るべきほどの縹緻《きりょう》を持った男の子であります。
「お前さん、どうしたの」
最初は怖れていたお角も、寧《むし》ろ人間並み以上の子供であったものだから、落着いて咎《とが》め立てをする勇気が出ました。
「助けて下さい」
子供はそこへ跪《かしこ》まってお角の面《かお》を見上げました。その時、見ればその眼が白眼がちで、ちらり[#「ちらり」に傍点]とした、やや鋭いと言ってよいほどの光を持っているのを認められます。ただ、その身体の形を不恰好《ぶかっこう》にして見せるのは、最初から両手を後ろに廻しっきりにしているからです。
「どこから逃げて来たの」
「清澄山から逃げて来ました」
「清澄山から?」
「ええ、清澄で坊さんに叱られて、縛られました。おばさん、あたいの手を、縛ってあるから解いて下さい」
「縛られてるの、お前さんは」
お角がなるほどと心得て、そこへちょこなんと跪《かしこ》まった子供の背後《うしろ》へ廻って見るとなるほど、その小さな両手を後ろに合せて、麻の細い縄で幾重《いくえ》にもキリキリと縛り上げてありました。
お角は一生懸命にその結び目を解いてやろうとして焦《あせ》ったが、容易には解けそうもありません。
「ずいぶん固く結《ゆわ》えてあるわね、これじゃなかなか取れやしない」
お角はもどかしがって、ついにその縄の結び目へ歯を当てました。
「小柄《こづか》を貸して上げようか」
甚三郎は見兼ねて好意を与えると、お角は首を振って、
「いいえ、結んだものですから解けそうなものですね、解けるものを切ってしまうのは嫌なものですから」
お角はしきりに縄の結び目へ歯を当てて、それを解こうとしましたが、いったいどんな結び方をしたものか知らん、ほんとに歯が立ちません。けれども、お角は焦《じ》れながらも、いよいよ深く食いついて、面《かお》をしかめながらも首を左右に振っています。
「おばさん、ずいぶん固く結えてあるでしょう、岩入坊《がんにゅうぼう》が縛ったんですからね、とても駄目でしょうよ、口では解けないでしょうよ、刃物で切っちまって下さい」
子供は、ややませた口ぶりで、お角のすることの効無《かいな》きかを諷《ふう》するように言いますから、こんなことにも意地になったものと見え、
「いま解いて上げるよ、結んだものだから解けなくちゃあならないんだから。切ってはなんだか冥利《みょうり》が尽きるわよ」
お角はしきりに縄に食いついて放そうともしません。
「岩入坊は縛るのが名人だからね、岩入に縛られちゃ往生さ」
子供は、こんなことを言いながら、お角のするようにさせておりました。
「あ、痛!」
あまり力を入れて、歯を食い折ったか、ただしは唇でも噛み切ったか、面《かお》を引いたお角の口許に、にっと血が滲《にじ》んでおりました。
「解けましたよ」
その時にお角は、クルクルと縄の一端を持ってほごしてしまいました。
子供の手を自由にしてやって、お角は元の座に戻り、紙をさがして口のあたりを拭きました。滲み出した血を、すっかり拭き取って平気な顔をしているから、大した怪我ではないでしょう。
「どうも有難う」
子供はそこで、お角と甚三郎の前へ両手を突いてお辞儀をします。
「清澄から、これまで一人で来たのか」
「エエ、一人で逃げて来ました」
そこで甚三郎は、じ
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