が男に化けて、村の若い娘と契《ちぎ》り、かえって娘の情に引かされて、大武岬《だいぶみさき》の鼻というのから身投げをして、心中を遂げてしまったということから、どうもその子孫の狐が嫉《ねた》み心《ごころ》が強くて、男と女の間に水を注《さ》したがると申すこと」
「いやですね」
「だから、この界隈で、男女寄り合って話をしていると、必ずその三吉狐が邪魔に来る、それは相思《そうし》のなかであろうともなかろうとも、男女がさし向いで話をすることを、その狐は理由なしに嫉《ねた》む、そうしてその腹癒《はらい》せのために、何か悪戯をして帰るとのことじゃ。それを思い合せてみると、なるほど、こうして、そなたと拙者、罪のない甲州話をしているのも、三吉狐に嫉まるるには充分の理由がある、怖いこと、怖いこと」
駒井甚三郎はこう言って笑いました。お角も、それに釣り込まれて笑いましたけれども、それは自分ながら笑っていいのだか、笑いごとではないのだか、全く見当がつかなくなりました。
そう言われてみると、今夜、この場合のみならず、この頃中のことが、すべてその三吉狐とやらの悪戯ではあるまいか。三千石の殿様が、こうして落魄《おちぶ》れておいでなさることも夢のようだし、その殿様と自分が、こうして膝つき合わせて友達気取りでお話をしているのも疑えば際限がないし、美しい男に化けるのが上手だという三吉狐が、もしや駒井の殿様に化けて、わたしを引っかけているのではなかろうか。それにしては、あんまり念が入《い》り過ぎる。そんなにしてまで、わたしを化かさなければならぬ因縁がありようはずはない……お角はいよいよ気味が悪くなってきた時に、今度は自分の坐っている縁の下で、ミシミシと一種異様な物音がしましたから、
「あれ!」
と言って甚三郎の傍へ身を寄せました。
それは確かに、縁の下を物が這《は》っている音であります。
その時に駒井甚三郎は、懐中へ手を入れると、革の袋に納めた六連発の短銃を取り出しました。
お角は、駒井甚三郎なる人が、砲術の学問と実際にかけては、世に双《なら》ぶ者のない英才であるということを知りません。また、大波の荒れる時にはあれほどに気象の張った女でありながら、稲荷様の祟《たた》りというようなことを、これほどに怖がるのを自分ながら不思議だとも思いません。
「わたし、なんだか怖くなりました」
こう言って、甚三郎の面《おもて》を流し目に見ると、取り出した短銃を膝の上へのせて微笑しているその面《かお》が、なんとも言われない男らしさと、水の滴《したた》るような美しさに見えました。
そこで、縁の下がひっそり[#「ひっそり」に傍点]としてしまいました。ミシミシと音を立ててお角の坐っていた下あたりに這い込んだらしい物の音が、急に静まり返って、兎の毛のさわる音も聞えなくなりました。
「逃げてしまいましたろうか」
「いや、逃げはせん、この下に隠れている」
お角が、おどおどしているのに、甚三郎は相変らず好奇心を以て見ているようです。
「いやですね、いやなお稲荷様に見込まれては、ほんとにいやですね」
お角は、座に堪えられないほど気味悪がっているのに、
「動けないのだ……」
と言って、甚三郎は膝の上にのせた短銃をながめているのであります。
「おや、小さな鉄砲。殿様は、いつのまにこんなものをお持ちになりました」
お角はその時、はじめて甚三郎の膝の上の短銃に気がついて、そうしてその可愛らしい種子《たね》が島《しま》であることに、驚異の眼を向けました。
「いつでもこうして……」
甚三郎が、それを手に取り上げて一方に覘《ねら》いをつけると、なぜかお角はそれを押しとどめ、
「殿様、おうちになってはいけません」
「なぜ」
「でも、お稲荷様を鉄砲でおうちになっては、罰《ばち》が当ります」
「罰?」
「ええ、そんなにあらたか[#「あらたか」に傍点]なお稲荷様を鉄砲でおうちになっては、この上の祟《たた》りが思いやられます」
「ばかなことを」
甚三郎はそれを一笑に附して、
「拙者も好んで殺生《せっしょう》はしたくはないが、畜生に悪戯《いたずら》されて捨てても置けまい」
「いいえ、どうぞ、わたしに免じて助けて上げてくださいまし、わたしはお稲荷様を信心しておりますから」
「稲荷と狐とは、本来別物だ」
「別物でも、おんなじ物でも何でもかまいませんから、そうして置いて上げてくださいまし、そのお稲荷様が嫉《そね》むなら嫉まして上げようじゃありませんか、ね、そうして置いてお話を承りましょうよ、わたしゃ化かされるなら化かされてもようござんす」
「きつい信心じゃ」
駒井甚三郎は苦笑いして、また短銃を膝の上に置くと、そのとき縁の下で、うーんとうなる声が聞えました。
「おや、殿様、人間でございますよ、お稲荷様じゃご
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