を飛び出した時の要領は、依然としてその要領を得ないで帰っては、空《むな》しく百日紅《さるすべり》の枝に向って、その余憤を漏らすというようなわけでありました。
 その時に、板塀の中で釣瓶《つるべ》の音がします。誰か水を汲んでいるに違いない。そこで米友は、板塀の節穴から中を覗《のぞ》きます。
 長屋の裏庭の井戸ばたで、水を汲んで面《かお》を洗っているのは、机竜之助でありました。
「ふーん」
 それを節穴から覗いた米友は、やっぱり呆《あき》れ返った面をして、嘲笑をさえ浮べました。
 手拭で面を拭いてしまった竜之助は、その手拭を腰にはさんで、盥《たらい》の水を流しへザブリとこぼし、それからまた手探りで釣瓶を探って、重そうに水を釣り上げると、それを盥にあけておいて、縁側の方へ歩いて行く。
「ふーン、ばかにしてやがる」
 米友がその後ろ姿に冷笑を浴びせている間に、竜之助は縁側まで行くと、そこへ絡《から》げて置いた両刀を携えて、井戸端へ帰って来るのであります。そうして、刀の柄《つか》だけをザブリと盥の中へ入れて、それをしきりに洗っているもののようです。柄だけを洗っているのか、或いは中身の血のり[#「のり」に傍点]でも落しているのか、そこは井戸側の蔭になって、よく見ることができませんけれども、やがて、すっくと立ち上って、両刀を小腋《こわき》にして、憂鬱極まる面《おもて》をうなだれて、悄々《しおしお》と縁側の方に歩んで行く姿を見ると、押せば倒れそうで、いかにも病み上りのような痛々しさで、さすがの米友が見てさえ、哀れを催すような姿なのであります。
「あいつは幽霊じゃねえのか知ら、どうもわからねえ」
 そんな、やつやつしい姿で縁側のところまで辿りついた竜之助は、そこへ両刀をそっとさしおいて、日当りのよいところの縁側へ腰をかけました。だから、ちょうど、米友の覗いている節穴からは正面にその姿を見ることができます。その蒼白《あおじろ》い面《かお》を、うつむきかげんに、見えない目で大地のどこやらを注視しながら、ホッと吐息をついている。その呼吸までが見るに堪えないほどの哀れさであるけれども、日の光は、うららかといっていいくらいのかがやいた色で、この人のすべてを照らしておりました。
「おや?」
 この時に、また米友を驚かせたものがあります。それは、今まで自分の身の辺《まわり》にいたムク犬が、いつのまにどこをくぐってか、もう庭の中へ入り込んでいて、しかも、極めて物慕わしげに、竜之助の傍へ寄って行くことであります。
 ムクが近寄ると、竜之助がその手を伸べて頭のあたりを探って撫でてやると、ムクは、ちゃんと両足を揃えて、竜之助の傍へ跪《ひざまず》きました。
 竜之助は何か言って犬の頭へ手を置いて、犬と一緒に仲よく日向ぼっこをしている体《てい》です。
 これは米友にとっては、非常なる驚異でありました。ムクは、そうやすやすと一面識の人に懐《なつ》くような犬ではない。彼は善人を敵視しない代りに、悪意を持った者に対しては、ほとんど神秘的の直覚力を持った犬であります。まあ、伊勢から始まって、この江戸へ来ての今日、ムクがほんとうに懐いている人は、お君と、おいらと、それからお松さん――その三人ぐらいのものだと思っている。しかるに、いま自分の傍を離れて、かえって、見も知りもせぬ、あの奇怪極まる盲者《もうじゃ》の傍へ神妙に侍《はべ》っているムクの心が知れない。
 米友は何か知らん、胸騒ぎがしました。じっとしていられないほどに惑《まど》わしくなりました。声を立ててムクを呼び立ててみようとして、身を屈《かが》めて、手頃の小石を拾い取るや、右の手をブン廻すと、小石は風を切って庭の中に飛んで行きました。
「誰だ、いたずらをするのは」
「おいらだ、おいらだ」
 米友は百日紅《さるすべり》の枝を伝って、塀を乗り越してやって来ました。米友の投げた小石をそらした竜之助は、刀を抱えて、障子をあけて、家の中へ入ってしまいました。
「ムク」
 そのあとで、徒《いたず》らに眼をパチパチさせた米友は、持っていた杖の先でムクの首のあたりを突いて、
「お前は家へ帰れ」
 そう言ってから、いま竜之助があけて入った障子を細目にあけて、
「おい先生、どうしてるんだ、寝てしまったのかい」
 それでも返事がないからズカズカと上って行きました。それで枕屏風の上から中を覗き込んで、
「おい先生、お前、昨夜《ゆうべ》はどこへ行った」
 その言葉は、米友としても突慳貪《つっけんどん》であります。
「どこへも行かない」
「冗談いっちゃいけない、今度という今度こそは、すっかり手証《てしょう》を見たんだ。お前は、昨夜辻斬をしたな」
「そんなことがあるものか」
「ねえとは言わせねえ。驚いちゃったよ、その身体でお前が毎晩、辻斬に出るというんだ
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