んでございます、ああして嬲《なぶ》り殺《ごろ》しにしなければ納まらないのでございます、苦しがらせて殺さなければ、虫が納まらないというものでございましょう、全く怖ろしいものです。それを私が、こちらに立って、ちゃあんと手に取るように聞き込みながら、それで一言半句も物が言えなかったのは、いま考えると私が怖かったからでございます、もしあの時に、私が何か言おうものならば、きっと私が殺されてしまいます、私が殺されなければ、このお蝶さんが殺されてしまいます、ずいぶん離れてはいましたけれども、トテモ逃げる隙なんぞはありゃしません、それで私はスクんでしまいました、動けなくなったのは、自分の身が危ないからでございますね、お蝶さんがかわいそうだからでございますね。そのうちあの女の人が、なぶり殺しに逢ってしまって、悪者は右手の方へと逃げて行きました、まもなくとんとんと人の足音でございました、それが、友造さんとおっしゃるそのお方で、その時になって初めて、私の身体からエレキが取れて自由になりました。悪者をお探しになるならば、それは病人のお武家で――ああ、もう一つ肝腎なことを申し忘れました、その病人の悪者は、私と同様の盲目《めくら》でございますよ、病人で盲目で、そうして辻斬をして歩きたがるのですから、全く、今まで私共は聞いたことも、むろん見たこともない悪者なんでございます」
 弁信が順を逐《お》うてスラスラと述べ立てるのを、役人も、辻番も、お蝶も、酔わされたように聞いていたが、なかにも米友が、
「あっつ、ムクがいねえ、ムクがどこかへ行ってしまった」
 いまさらに気がついて、再び地団駄を踏みました。

         十九

 その翌朝になって、弁信、お蝶、米友の三人ともに、役所から許されて帰ることになりました。
 一旦、鐘撞堂新道《かねつきどうしんみち》のお蝶の主人の家へ引取った米友は、それから出直して、どこへ行くともなしに歩きながら、
「どうも、わからねえ」
 その面《おもて》に一抹の暗雲がかかって、しきりに首を傾けながら歩くのです。ついには棒を小脇《こわき》にかかえたまま、両腕を組んで、
「わからねえ、わからねえ」
 やがて辿《たど》りついたのは、例の弥勒寺の門前であります。門へ入ろうとする途端に、
「やあ、ムク、ここにいたのか」
 出会頭《であいがしら》にバッタリと逢ったのは、昨夜柳原の土手で別れたムク犬であります。
「ムク、昨夜《ゆうべ》、手前《てめい》なんだっておいらを置いてけぼりにして、どこかへ行っちまったんだ、先廻りをしてこんなところへ来ているとは人が悪《わり》いな、人じゃなかった、犬が悪いんだ――だが、お前は良い犬だ」
 米友はムク犬の頭を撫でてやりました。ムク犬は米友に従って薬師堂の裏手へ廻ると、そこで米友がピタリと足を留め、
「なるほど、この百日紅《さるすべり》の木がいい足場になるんだ、この枝を伝わってああ行くと、塀を躍《おど》り越すなんぞは盲目《めくら》にもできらあな。よし、今日はひとつ、あの枝をぶち落しといてやれ、どうなるか」
 板塀の上から枝を出した百日紅の樹を、しきりに睨《にら》んでいました。
「だが、やっぱり、わからねえことは、わからねえ」
 米友は、百日紅の枝を仰ぎながら、ここまで来ても、やっぱり思案に暮れて、いよいよその面《おもて》を曇らしています。
 実際、このごろ中は、米友の頭では解釈しきれないことが起っているに相違ないのです。それで米友はこのごろ中、毎晩のように、夜中になると刎《は》ね起きて、例の手槍を肩にして外へ飛び出します。飛び出す時の米友の面《かお》は、
「ちぇッ、また出し抜かれたな」
という表情で、或る時は町家の軒下をくぐり、或る時は屋根の上を躍り越えたりして、深夜の市中を走ります。たしかに、何者かを追蒐《おっか》けて出たのだが、その帰り来った時には、いつも呆然自失《ぼうぜんじしつ》です。何物をも認めることなくして出かけ、何物をも得るところなくして帰るのです。帰り来ると、がっかりして、囲炉裏《いろり》の傍に座を構えながら、枕屏風《まくらびょうぶ》を横目に睨んで、
「ちぇッ」
 舌を鳴らして額の皺《しわ》を深くしながら、火を焚きつけることが例になっているのであります。
 昨夜――むしろ今暁のことは例外でありました。今まで、そうして深夜に物を追蒐けて出ても、その当の目的とするものを何もつかまえては帰らなかったように、自分も、夜番にも、辻番にも、尻尾《しっぽ》を押えられるようなことはなしにここまで来たが、昨夜はついに、辻番と検視の役人の前に立たねばならなくなりました。
 しかし、それは、鐘撞堂新道の相模屋の雇人であるということで、お蝶の巧妙な証明も役に立って無事に釈放されて、今になって帰っては来たものの、昨夜、家
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