に主人を見守っていたムク犬が今度は、それと違って垣根の彼方《かなた》を見つめています。前後の模様を見ると、垣根のかげから庭のうちをうかがっていたものがあるらしい。お君は全くそれに気がつかないが、ムク犬は早くもそれと感づいたらしいのです。
 お君はその時に身のうちに寒気《さむけ》を感じて、いつのまにか、恥かしい寝衣姿《ねまきすがた》で、奥庭の池のほとりに立っている自分を見出しました。
「ああ、悪かった、わたしは、また気がゆるんでしまいました。誰も見ていなかったかしら。ムクや、お前こっちへおいで、わたしは内へ入りますから」
 正気に返ったお君は、※[#「勹/夕」、第3水準1−14−76]惶《そうこう》として縁へ上って、障子の中へ身を隠してしまいました。

         十五

 それから暫らくたって、両国橋を啣《くわ》え楊枝《ようじ》で、折詰をブラさげながら歩いて行くのは例の金助です。
「占めしめ、万事こう来なくっちゃならねえ、駒止橋《こまどめばし》の獣肉茶屋《けだものぢゃや》で一杯飲んで、帰りがけにももんじいや[#「ももんじいや」に傍点]へ寄って、狐を一舟|括《くく》らせて、これから巣鴨の化物屋敷へ乗り込むなんぞは、我ながら凄いもんだ」
 何か嬉しくてたまらないことがあるらしく、しきりに独言《ひとりごと》を言い言い歩きます。
「ところで、今様《いまよう》の鈴木主水《すずきもんど》を一組こしらえ上げてしまったなんぞは、刷毛《はけ》ついでとは言いながら、ちっと罪のようだ」
 こう言ってニタリと笑いました。この先生こそは、相生町の老女の家の兵馬を訪ねて来て、兵馬が出たあとをお松に見つかって呼び込まれて、何か兵馬の近頃の身の上について、お松に喋《しゃべ》ってしまったことがあるらしい男です。
 しかし、この先生のことだから、甲に向って喋ることと、乙に向って喋ることの間に、味をつけないで喋る気遣いはありません。そうしてその間に何かうまい汁がありとすれば、その余瀝《よれき》を啜《すす》って、皿まで噛《かじ》ろうという先生だから、お松に尋ねられたことも、素直には言ってしまわないことはわかっています。おべんちゃら[#「べんちゃら」に傍点]と、お為《ため》ごかしを混合《ごっちゃ》にして、けだもの茶屋の飲代《のみしろ》ぐらいは、たしかにお松からせしめていることは疑うべくもありますまい。
 ただ、そのくらいならばいいけれども、今様の鈴木主水を一組こしらえたというような言葉は、どうも聞捨てがならない。兵馬と東雲《しののめ》との間が、果してどんなわけになっているのか知れないが、それをお松に向って輪をかけて吹聴《ふいちょう》し、お松を嗾《け》しかけるようなことにしては、これはたしかに罪です。お松はうっかりそれに乗せられるほどの女ではないけれど、こんな男の細工と口前が、ついつい大事を惹《ひ》き起さないとも限らないから、実際は、お松も兵馬も、悪い奴に見込まれたと思わねばなりますまい。
 それよりもなお危険なのは、この男がこれから、染井の化物屋敷へ行くと言ったことであります。染井の化物屋敷とは、つまり神尾主膳らの隠れ家をいうものです。神尾の許へ行くからには、どうせ碌《ろく》なことでないのはわかっています。そうしてこの男が老女の家を辞して帰る時に、垣根の蔭から何か、そっと隙見《すきみ》をしてその途端に、
「占めた」
と言って嬉しがりはじめたのは、やっぱりその辺に何か売り込むことが出来て、それを土産《みやげ》に神尾へ乗り込もうという気になったのは、前後の挙動で明らかにわかります。
 そうであるとすれば、その隙見は何を見たのだ。刻限から言っても、ムク犬が奥庭で、急にお君の傍を離れたことから言っても、我に返ったお君が、あわてて家の中へ隠れたのから見ても、この男は、はからずあの際、お君の姿を認めたものに違いない。そんならば確かに一大事です。甲府にいる時に、お君はたしかに神尾が一旦は思いをかけた女である、それをこの男が神尾へ売り込むとすれば、今でも神尾の好奇心を嗾《そそ》るに充分であることはわかっているのであります。
 それを知っているから金助は、また儲《もう》けの種にありついたように、前祝いかたがた獣肉茶屋《けだものぢゃや》で一杯飲んで、上機嫌で両国の河風に吹かれながら橋を渡って行くものと見える。
 こうして有頂天になって橋の半ばまで来た金助が、急に何かにおどかされたように、よろよろとよろけると、踏み留まることができず、脆《もろ》くもバッタリ前に倒れて、暫し起き上ることができません。
「御免よ、御免よ」
 金助が、ばったりと倒れて、暫く起き上れないでいる時、それを左に避《よ》けてしきりにお詫《わ》びをしている者があります。それは竹の笠を被《かぶ》った小柄な男でありました
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