ならばほんとうに一大事。
 それを思うと、覚えず涙が眼の中にいっぱいになって、幾度も着物を畳み直しているうちに、ふとその袂《たもと》の中から、読み捨てた一封の手紙が、何か物を言うように綻《ほころ》び出しました。
 お松は、はっとして、その手紙を手に取り上げて見ると女文字です。ひろげて見ると、嫉《ねた》ましいほどに手ぎわよく書いてあって、文言《もんごん》は読まない先に、その水茎《みずぐき》のあとの艶《なま》めかしさと、ときめく香が、お松の眼をさえくらくらとさせるようでありました。お松は、一種の口惜《くや》しさがこみ上げて、手紙を取る手がワナワナとふるえました。
 その時に、廊下で人の足音がします。
「お帰りなさいませ」
 そこへ帰って来たのは兵馬であります。お松は慌《あわ》てて、あの艶《なま》めかしい手紙を自分の懐ろへ押入れて、兵馬の前へ丁寧にお辞儀をしながら、そっと涙を隠しました。
「そうしておいて下さい」
「あの、兵馬様、今日はお留守中に、お客様が二人おいでになりました」
「来客が二人、そうしてそれは誰と誰?」
「一人は、いつもの金助さんでございますが、もう一人は、久松町辺の刀屋だとか申しておりました」
「ははあ、刀屋が来ましたか。それから、金助は何と言いました」
「あの方は何とも申しません、ただ、わたしに向って、このごろはさだめてお淋しうございましょうと、笑いながら言いましただけでございます」
 こう言ってお松は、伏目になりました。
「ははあ……何を言うのかあいつの言うことは、取留まったものではない」
 兵馬はやはり、淋しき笑いに紛《まぎ》らわそうとするらしいが、
「兵馬様」
 そのときお松は、屹《きっ》と心を取り直したように面《かお》を上げて、兵馬の名を呼びました。
「何でござる」
「あなた様は、このごろ、どちらの方へ多くお出かけになりまする」
「何を改まって、そのようなことをおたずねなさる」
「いいえ、わたくしは、それをお伺い致さねばならないほど、このごろは、ほんとに気が弱くなってしまいました」
「そなたの言うことが、わしにはよくわかりませぬ。拙者《わし》のこのごろの出先といって、その目的は、そなた存知の通りなれど、出先はやはり今日は東、明日は西、どこときまったことなく江戸の天地を、四角八面に潜《くぐ》り歩いているようなものじゃわい」
「それならよろしうござんすけれど、わたくしのこのごろお見受け申すあなた様は、前のあなた様とは別のお方のようでございます、それが悲しうございます」
「ナニ、拙者《わし》が以前とは別な人のようになった……ははあ、そなたの眼に左様に見えますか」
「ええ、ええ、失礼ながら、これまでのあなた様は、どんな艱難にお逢いになっても、お心の底には強いところが確乎《しっかり》としておいでになりましたけれど、このごろは、それがゆらゆらと動いておいであそばすようにばかり、わたくしの眼には見えてなりませんのでございます、お出ましになる時も、帰っておいでになる時も、あなた様のお面にも、お心持にも、おやつれが見えるばかりで、昔のような落着きというものが、一日一日になくなっておいでなさるように見えますのが、わたくしには悲しくてなりませぬ」
と言ってお松は、涙をこぼしました。

 その晩はお松は、こし方《かた》や行く末のことを考えて、いまさら、人の心の頼みないことを、しみじみと思いわびて眠れませんでした。
 懐ろへ入れて来たあの女文字の手紙を取り出して読み返してみると、舌たるいような言葉で、ぜひぜひ今宵のおいでをお待ち申し上げますというような文言であります。女の名は東雲《しののめ》とあって、宛名は片柳様となっていました。片柳の名は、兵馬が好んで用うる変名であり、東雲というのは、吉原のなにがし楼かにいる遊女の源氏名に違いない。お松はそれが悲しくもなり、腹立たしくもなって、その手紙を引裂いてやろうかと思いました。
 その遊女も憎らしいけれど、兵馬さんほどの人が、どうしてまたそんな狐のような女に、脆《もろ》くも溺れるようになったのか、あの人の心に天魔が魅入《みい》ったと思うよりほかはなく、それが口惜《くや》しくて口惜しくてなりません。といって、よく考えてみれば、こうして自分というものがお傍におりながら、そんな仇《あだ》し女に兵馬さんの心が移るようにしたのは、やはり自分が足りないからだと思うと、どうも残念でたまりません。どうかして、再び兵馬さんの心を、その女から取り戻さなければならないが、あちらは人を誑《たぶらか》すことを商売にしている人。その腕にかけては、とても太刀打ちのできないわたしであるかと思うと、お松は曾《かつ》て知らなかった嫉《ねた》ましさに、身悶《みもだ》えをさえするのでありました。寝られないから、お君の病気の容態を
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