残してあったのを、いよいよ殺されるときまった前に、不意にその金を受渡してどこへか運んで行ったものがある、今となって見ると、その二万両が、たしかにあの二頭の馬の背に積まれて、五人の人に護られて、碓氷峠を越えたのだということが、有力な観察でありました。
 さて、この二万両の金と、ほかに重要な荷物の多少が、ここからどこへ運ばれて何に使用されるのか……問題はそれで、同心や捕方が四方に飛んだのもその探索のためであります。
 その晩、夜通しで、信濃と上野《こうずけ》の境なる余地峠《よじとうげ》の難所を、松明《たいまつ》を振り照らして登って行く二人の旅人がありました。
 前なるは七兵衛で、後のは山崎譲であります。棒を取っては腕に覚えの山崎譲も、足においてはとうてい七兵衛の敵ではありません。一夜に五十里の山路を、平地のように飛ぶ七兵衛が先に立っての案内ぶりは、子供のあんよを気遣っているようなものです。峠の上で、
「七兵衛、一休みやらんことには、もう歩けぬわい」
 山崎が弱い音《ね》を吹くと、
「もう少しお降りなさいまし、いいところを見つけて焚火を致しましょう」
 山間《やまあい》へ来て、枯木を集め、松明の火をうつして焚火をはじめ、
「先生、まだ私にはよくわかりませんがなあ、その五人の強力《ごうりき》というのはいったい何者なんでございます、それほど大事なものを持って、わざわざこんな道を潜《くぐ》り抜けて甲府へ落着こうというのは、何かよくよくの謀叛《むほん》でもあるんでございましょうな、ひとつその辺のところをお聞かせなすっておくんなさいまし」
 七兵衛からこう言って尋ねかけられた時に、山崎は頷《うなず》いて、
「うむ、もっともな不審だ、お前から尋ねられなくても話そうと思っていたところだ。その五人の強力というのは、素性《すじょう》はまだよくわからないのだが、それはたしかに中国から九州辺の浪人だ、なかには容易ならん大望を持った奴がある。容易ならん大望というのは、隙を見て、甲府城を乗取ってしまおうという計画なのだ。甲府の城は名だたる要害の城で、徳川家でも怖れて大名に与えずに天領としておくところだ、それを乗取れば関東の咽喉首《のどくび》を抑えたということになるのだ。その五人の強力に化けた奴は、たしかにその一味の者共だ。そうしてあいつらが、坂本の宿へ馬を置きっ放しにして姿を晦《くら》ましたのは、言わずと知れた妙義の裏山から信州へ出て、山通しを甲府へ乗り込む手順に違いない。それからお前の兄弟分だとかお弟子だとかいう、そのがんりき[#「がんりき」に傍点]とやらが甲州者で道案内だと聞いて、いよいよそれを確めてしまったのだ。あいつらの携えている荷物というのは、水戸の武田耕雲斎が幕府から借りた三万両のうち、二万両がそっくりあるはずだ、それがあいつらの事を挙げる軍用金になるのは知れたことだ。ことによると、山通しをいよいよ甲府へ出るまでには、仲間の奴等がどこから出て来るか知れたものじゃない。まあしかし、落着くところは甲府ときまっているんだから、追蒐《おいか》けるにも、そう急ぐことはないや、あいつらに気取られるとかえってことが面倒になるから、気をつけて案内してくれよ」
 それを聞いて七兵衛が、しきりに感心して、
「なるほど、そりゃちっと、こちとらのやる仕事より大きいや、甲府の城を乗取って、お膝元を横目に見ながら、天下をひっくり返そうというんだから、出来ても出来なくっても、仕掛けが小さくはございませんな。よろしうございます、向うがその了見《りょうけん》なら、こっちもそのつもりで、先生の御用をつとめてつとめて、ぶちこわし役に廻るのも面白うございますね、ずいぶんやりましょう」

         十三

 相生町の老女の家の一間で、行燈《あんどん》の下《もと》に、お松は兵馬の着物を畳んでおりました。
 いつも元気で快活なお松が、このごろ、しおれているのが眼に立つほどで、今も着物を畳みながら、眼にいっぱいの涙をたたえております。
 今日も兵馬の留守中、用ありげに来た二人の客があります。その一人は、甲府からついて来たあのいやらしい金助という男で、あれがこの間、兵馬をはじめて吉原へ連れて行った男であります。あの男が来るたびに兵馬さんは落着かなくなって、その都度《つど》、お金の心配をなさるような御様子がありありとわかるのである。夜更けになってお帰りなさることもあるし、また、どうかすると一晩泊ってお帰りになることもあるが、そのお帰りになった後のお面《かお》の色は、打沈んで、太息《といき》をついておいでなさるのが、今までの兵馬さんとはまるっきり違う。
 もう一人の来客は、たしか刀屋であると言っていたが、もしや兵馬さんが御所持の腰の物を、あの刀屋にお払い下げになるつもりではあるまいか……そん
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