が男に化けて、村の若い娘と契《ちぎ》り、かえって娘の情に引かされて、大武岬《だいぶみさき》の鼻というのから身投げをして、心中を遂げてしまったということから、どうもその子孫の狐が嫉《ねた》み心《ごころ》が強くて、男と女の間に水を注《さ》したがると申すこと」
「いやですね」
「だから、この界隈で、男女寄り合って話をしていると、必ずその三吉狐が邪魔に来る、それは相思《そうし》のなかであろうともなかろうとも、男女がさし向いで話をすることを、その狐は理由なしに嫉《ねた》む、そうしてその腹癒《はらい》せのために、何か悪戯をして帰るとのことじゃ。それを思い合せてみると、なるほど、こうして、そなたと拙者、罪のない甲州話をしているのも、三吉狐に嫉まるるには充分の理由がある、怖いこと、怖いこと」
 駒井甚三郎はこう言って笑いました。お角も、それに釣り込まれて笑いましたけれども、それは自分ながら笑っていいのだか、笑いごとではないのだか、全く見当がつかなくなりました。
 そう言われてみると、今夜、この場合のみならず、この頃中のことが、すべてその三吉狐とやらの悪戯ではあるまいか。三千石の殿様が、こうして落魄《おちぶ》れておいでなさることも夢のようだし、その殿様と自分が、こうして膝つき合わせて友達気取りでお話をしているのも疑えば際限がないし、美しい男に化けるのが上手だという三吉狐が、もしや駒井の殿様に化けて、わたしを引っかけているのではなかろうか。それにしては、あんまり念が入《い》り過ぎる。そんなにしてまで、わたしを化かさなければならぬ因縁がありようはずはない……お角はいよいよ気味が悪くなってきた時に、今度は自分の坐っている縁の下で、ミシミシと一種異様な物音がしましたから、
「あれ!」

と言って甚三郎の傍へ身を寄せました。
 それは確かに、縁の下を物が這《は》っている音であります。
 その時に駒井甚三郎は、懐中へ手を入れると、革の袋に納めた六連発の短銃を取り出しました。
 お角は、駒井甚三郎なる人が、砲術の学問と実際にかけては、世に双《なら》ぶ者のない英才であるということを知りません。また、大波の荒れる時にはあれほどに気象の張った女でありながら、稲荷様の祟《たた》りというようなことを、これほどに怖がるのを自分ながら不思議だとも思いません。
「わたし、なんだか怖くなりました」
 こう言って、甚
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