ありなさるのですか」
「なければ殿様でおられるのだが、あるからかように落魄れたのだ」
「それは一体、どういう罪なんでございましょう、あんまり不思議で堪りませんから、それをお聞かせ下さいませ」
「それはな……」
駒井甚三郎は、お角の疑いに何をか嗾《そそ》られて沈黙しましたが、急に打解けて、
「隠すほどのこともあるまい、実はな、恥かしながら女だ、女で失策《しくじ》ったのだ」
「エ、まあ、女で……」
お角は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って呆《あき》れました。その眼のうちには、幾分かの嫉妬《しっと》が交っているのを隠すことができません。御身分と言い、御器量と言い、そうしてまた、このお美しい殿様に思われた女、思われたのみならず、これほどのお方を失敗《しくじ》らせたほどの女、それは何者であろう。憎らしいほどの女である。その女の面《かお》を見てやりたい。お角は、そう思って呆れている時に、自分の背にしている裏の雨戸に、ドーンと物の突き当る音がしたので吃驚《びっくり》しました。
七
お角は吃驚しましたけれども、甚三郎は驚きません。
「何でございましょう、今の音は」
「左様……」
甚三郎は、なお暫く耳を澄ましてから、
「やっぱり、いたずら[#「いたずら」に傍点]者だろう」
と言いました。
「え、いたずら[#「いたずら」に傍点]者とおっしゃるのは?」
「向うの松原に、小さな稲荷《いなり》の社《やしろ》がある、あれの主が三吉狐《さんきちぎつね》というて、つい、近頃までも、その三吉狐がこの界隈《かいわい》に出没して、人に戯れたそうじゃ。ことに美しい男に化けて出ては、若い婦人を悩ますことが好きであったと申すこと。ところが、我々がここへ来てからは、とんとそれらの物共が姿を見せぬ、化かしても化かし甲斐《かい》がないものと狐にまで見限られたか、それとも、彼等には大の禁物な飛道具や、煙硝《えんしょう》の臭いで寄りつかぬものか、絶えて今まで悪戯《いたずら》らしい形跡も見えなかったが、たった今の物音でなるほどと感づいたわい」
こんなことを言いました。お角はさすがに女だから、それを聞いて、襟元が急に寒くなったように思い、
「そんなに性《しょう》の悪いお稲荷様があるんでございますか」
「全く、性質《たち》のよくない稲荷じゃ。ことにその三吉狐とやらは先祖
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