、さっさと立って自分の居間へ行ってしまいます。そうして夜おそくまで何かの研究に耽《ふけ》るらしくありましたが、お角は、ひとり取残されたように炉辺に坐っておりました。前に言ったように、この洲崎の遠見の番所は、離れ島のような地位に置かれてあります。前は海で、陸地つづきは、ほとんど交通を断たれているのであります。
 お角も、かなりおそくまで、炉の傍に、ぼんやりとして燈火を見つめたり、火箸を取って灰へ文字を書いたりしていましたが、
「わたしゃ、あの殿様はわからない」
と自棄《やけ》のようなことを言って、帯を解いて男の着物を寝衣《ねまき》にして、蒲団《ふとん》をかぶって寝てしまいました。
 けれども、その翌朝は、早く起きて、水を汲んだり、御飯を炊いたり、掃除をしたり、いっぱしの女房気取りで、気持のよいほどの働きぶりであります。
 朝の食事が終ると、甚三郎はまた海岸へ出て行きました。正午《ひる》時分にいったん帰って、居間へ閉籠《とじこも》ったが、しばらくすると、またどこへか出て行きました。そうして夕方になって戻って来ました。
 夕飯の時は、またお角を相手にして、軽快に四方山《よもやま》の話を語り出でました。
「そう改まって給仕には及ばん、そなたもここで一緒に」
 甚三郎は、強《し》いてお角にすすめて、一緒に夕餐《ゆうさん》の膳に向いながら、
「人間の一芸一能は貴《たっと》い、そなたの仕立てた芸人たちの業を、そのうち一度見せてもらいたいものじゃ」
 真顔《まがお》になって、こんなことを言い出しましたから、お角もおかしくなって、
「ねえ……殿様」
 思わず膝を進ませると、
「殿様と言っちゃいかん、昔は殿様の端くれであったかも知れんが、今は船頭だ」
「では、何と申し上げたらよろしうございましょう」
「駒井とでも、甚三郎とでも勝手に」
「駒井様、駒井の殿様……なんだかきまりが悪うございますね。駒井様、そんなことを申し上げると口が曲りそうですけれど、わたしたちには、どうしても、あなた様の御了見がわかりません」
「わからんことはあるまい、浪人して詮方《せんかた》なく、こうしているまでのことじゃわい」
「どうして、あなた様ほどのお方が、これほどまでに落魄《おちぶ》れあそばしたのでございましょう」
「自分が悪いからだ」
「殿様……また殿様と申し上げました、あなた様のようなお方に、お悪いことがお
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