女は庚申塚の後ろへ身を隠しました。兵馬もそこにじっとしてはいられない気になって、男装した女の武家と同じように、その庚申塚の背後へ身を隠しました。
 そうしているうちに提灯が、庚申塚の前へ通りかかります。
 お供が提灯を持って先に立ち、真中に立派な羽織袴の武士、それにつづいて若党と見ゆる大兵《だいひょう》な男の三人づれが、この庚申塚の前を通りかかって、
「あ、悪いな、提灯が消えちまった」
 ちょうど、時も時、その庚申塚の前まで来た時に提灯が消えてしまいました。これは別段に風があったというわけでもなく、また物につまずいたというわけでもなく、長い時間とぼされていた蝋燭《ろうそく》の命数がここへ来て、自然に尽きてしまったのだから是非もありません。
「立つは蝋燭、立たぬは年期、同じ流れの身だけれど……かね」
「もう、提灯は要《い》らんよ」
 それは主人の声であるらしい。
「それでも、無提灯で帰るのは景気が悪いですからね、景気をつけて参りましょうよ」
 提灯持ちは、火打道具をさぐっているものらしい。
「よせよせ、提灯で足許を見られるような、兄さんとは兄さんが違うんだぞ」
 りきみかえっているのは、若党の肥った男であるらしい。
 それをやり過ごした兵馬と男装の女とは、庚申塚の蔭から出て来ました。
「どうも不思議だ、今のあの武家は、たしかにあれは神尾主膳に違いない」
 兵馬はこう言って、闇に消えて行く三人の後ろ影を見つめて追いかけました。

         十八

 それからいくらも経たない後、両国の見世物小屋の屋根から高く釣り下げられた大幟《おおのぼり》に、赤地に白く抜いて、
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「山神奇童 清澄の茂太郎」
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とあります。
 その見世物小屋というのは、過ぐる時代に、珍らしい印度人の槍芸《やりげい》のかかった女軽業《おんなかるわざ》の小屋で、その後一時は振わなかったのを今度、再びこの山神奇童が評判になって、みるみる人気を回復しました。
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「安房の国、清澄の茂太郎は、幼い時に父母に別れ、土地の庄屋に引取られ、いろいろと憂き艱難、朝《あした》は山、夕べは磯、木を運んだり汐《しお》を汲んだり、まめまめしく働くうちに、庄屋のお嬢さんに可愛がられ、お嬢さんの頼みで、鋸山は保田山日本寺の、千二百羅漢様の、御首を盗んだばっかりで
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