のを、ここでも平身低頭の体《てい》で詫《わ》び入るのだから、この武士の堪忍力の強さと言おうか、意気地なしの底無しと言おうか、それに兵馬は呆《あき》れながら、
「お人違いとあらばぜひもござらぬが、御姓名が承りたい、いずれの御家中でおいでなさるか、それも承りたい」
こう言って突込むと、
「それはお許し下されたい、このままにてお見逃し下されたい」
「いいや、それは相成らぬ」
あまりに兵馬が執念《しつこ》いために、さすが堪忍無類の覆面ももはや堪《たま》り兼ねたか、兵馬の隙を見すまして自分の脇差に手をかけて、スラリと抜打ちを試みようとするらしいから、それを心得た兵馬は逸早《いちはや》くその武家の利腕《ききうで》を抑えると、意外にもそれは女のように軟らかな手先であります。
利腕を取った時に兵馬も、これはと驚きました。手先を押えられた覆面は、それを振り放そうとしましたけれども、その力がありません。
「どうぞ、お許し下さいませ、このままお見のがし下さいませ」
その声は、生地《きじ》になった女の声であります。
「そなたは御婦人でござるな」
「はい」
もう争うても無益と観念したらしく、覆面の武家は、女としての神妙な白状ぶりであります。
「御婦人の身で、何故にかように男装して、真夜中の道を歩かれまする」
兵馬から尋常に尋ねられて、女はさしてわるびれずに、
「これには深い仔細がござりまする、夫が放蕩者ゆえに、こうして姿を変えて吉原へ入り込み、よそながら夫の身持を見守るためでござりまする」
「ああ、左様でござるか」
兵馬はそれで、いちおう納得しました。
「して、お屋敷は?」
と次に念を押した時に女は、
「それは……」
と言って口籠りました。
「強《し》いてお尋ねは致さぬが、夜更けのこと故、そこらあたりまでお送り申しましょう」
「御親切に有難うございますが、屋敷には、ちと憚《はばか》ることがござりまする故、どうぞ、このままでお見逃し下さいませ」
その時に、向うの屋敷道に小さく提灯《ちょうちん》の火影《ほかげ》が現われ、話をしながら二三の人が、こちらへ向いて歩いて来るようです。その提灯を見ると、男装した女があわてて、
「御免下さいませ、あの提灯は、あれは」
と言って、四辺《あたり》を見廻したが、背後《うしろ》にあったのがちょうど、庚申塚《こうしんづか》です。兵馬に気兼ねをしながら
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