或いは巣鴨まで足を踏み入れているかも知れないと思われます。
とあるお寺の門の前へ来て、はじめて駕籠がハタと留まりました。兵馬も足をとどめて物蔭から遠見にしていると、駕籠賃も酒料《さかて》も無事に交渉が済んで駕籠屋は引返す。駕籠を出た覆面は、お寺の門の中へは入らずに、垣に沿うて横路へ廻る。左がなにがし大名の下屋敷とも思われる大きな塀、右は松並木で、その間に、まばらに見える茅葺《かやぶき》の家が、もう一軒も起きているのはありません。茶畑があって、右へ切れる畑道の辻に庚申塚《こうしんづか》があります。そのとき兵馬は、もうよかろうと思って、後ろから、
「お待ち下さい」
「エ!」
兵馬に呼びかけられて、覆面の武家は悸《ぎょっ》として立ちどまりました。追いついた兵馬は、
「お待ち下さい」
と言ってわざと、覆面の刀の鐺《こじり》を取りました。
「どなたでございますな」
覆面の武家は、非常なるきょうふに打たれたようですけれども、その言葉は丁寧で、そうして物優しくありましたから、兵馬はかえって自分の挙動の、あまりになめげ[#「なめげ」に傍点]であることを恥かしく思うようになりました。そのはずです、兵馬に他の目的があればこそ、我から進んでこんな無礼な振舞をしてみようとはするものの、これらの仕打ちは一種の不良少年か、追剥《おいはぎ》類似の、ずいぶんたち[#「たち」に傍点]のよくない挙動と見られても仕方がないのであります。先方が、いよいよ恭謙であり、礼儀正しくあることによって、兵馬は自分で浅ましいと思いながらも、ここまで来ては退引《のっぴき》のならぬことですから、
「お見忘れでござるか、先刻、大門にて御意《ぎょい》得申した、あの御挨拶が承りたいために、おあとを慕うてこれまで参りました。あれはいったい、拙者に恨みあってなされたか、ただしは、お人違いでもござったか、武士の一分そのままにはなり難き故、ぜひ御返答が承りたい」
兵馬は心苦しくも、こうして性質《たち》の悪い強面《こわもて》を試みると、件《くだん》の覆面はいよいよ神妙に、
「あれは人違いでござりまする、平《ひら》に御容捨を願いまする」
こう言われて、兵馬はまたも取りつく島がありません。こっちから無礼を加えた上に、ここまでついて来て、なお執念深く喧嘩を売りかけようというのだから、もう堪忍袋《かんにんぶくろ》が切れてよかりそうなも
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