だけの房州話であったのが、今はお角をさしおいて、最寄《もよ》りの人たちが炭問屋の主人を中に置いての房州話となりました。
 その話のうちで最も多く一座の興味を惹《ひ》いたのは、鋸山の日本寺の千二百|羅漢《らかん》の話でありました。その千二百羅漢のうちには必ず自分の思う人に似た首がある。誰にも知られないようにその首を取って来て、ひそかに供養すると願い事が叶《かな》うという迷信から、近頃はしきりにあの羅漢様の首がなくなるという話が、誰やらの口から語り出されると、一座の興を湧かせます。
 羅漢様の首を盗む者のうちには、妙齢の乙女もある。血の気に燃え立つ青年もある。わが子を失うて、その悲しみに堪えやらぬ母親もある。最愛の妻を失うた夫、夫を失うた妻もある。そうして一旦盗んで来た首をひそかに供養して、更に新しい胴体をつけて、また元へ戻すと、生ける人ならばその思いが叶い、死んだものならばその魂が浮ぶ……という話が興に乗った時分には、もう日が暮れて風がようやく強く、船が著しく揺れ出したように思われるけれど、話の興に乗った一座の人々は、それをさのみ気にする様子もなく、
「それからまた、芳浜《よしはま》の茂太郎は、ありゃどうしましたろうね」
 酒樽の蔭から、若いのがこう言いました。
「芳浜の茂太郎は、今あすこにはおりませんよ、あんまり悪戯《いたずら》が過ぎたもんだから、なんでも清澄のお寺へ預けられてしまったということでござんすよ」
と答えるものがありました。
 日本寺の千二百羅漢に次いで、芳浜の茂太郎なるものが多少でも問題になることは、それが何かの意味で土地の名物でなければなりません。
「エ、芳浜の茂太郎が、清澄のお寺へ預けられたんですって?」
 それにいちばん驚かされたらしいのが、芳浜の茂太郎なるものとは、縁もゆかりもなかりそうなお角であったことは意外です。
「とうとう清澄のお寺へ預けられてしまったというこってす」
「そうですか、それは惜しいことをしましたね」
 心から力を落したようなお角の言いぶりでしたから、
「おかみさん、あなたもあの子を御存じなんでございますか」
「エエ、ちっとばかり……」
「左様ですか」
 炭問屋の主人が改めてお角の面《かお》を見直しました。上総《かずさ》房州あたりへは初めてであると言った人が、芳浜の茂太郎なるものを知っているということが、どうやら腑《ふ》に落ち
前へ 次へ
全103ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング