なかったもののようです。
「その清澄のお寺とやらまでは、あれからまだよほどの道のりがあるんでございましょうか」
「そうですよ、遠いといったところが同じ房州のうちですから、道程《みちのり》にしては知れたものですが、なにしろ、内と外になっておりますからな、道はちっとばかりおっくう[#「おっくう」に傍点]なんでございますな、上総分で天神山というのへおいでなさると、あれから亀山領の方へかけて間道がありますんで、その間道をおいでになるのがよろしかろうと思いますよ。あの道は、昔、日蓮様なども清澄から鎌倉へおいでなさる時は、しょっちゅうお通りになった道だそうですから、それをお通りなさるのが芳浜からは順でございましょうよ。左様、里数にしたら六里もありましょうかな」
 こんな話をしている時に、船が大きな音を立てて著しく揺れました。それは東南から煽《あお》った風が波を捲いて、竜巻《たつまき》のように走って来て、この船の横腹にどう[#「どう」に傍点]と当って砕けたからです。
「エ、冷てえ」
 薄暗い中に坐っていたものの幾人かが、ブルッと身慄《みぶる》いをして、自分たちの肩を撫でおろしました。

         四

 それはいま砕け散った波のしぶきを多少ともにかぶったからのことで、その時に、はじめて海の風が穏かでないのみならず、天候もなんとなく険悪になっていたことを気のついた者もありました。左へ夥《おびただ》しく揺れた船は、それだけ右へ押し戻されました。立っていた人は、よろよろとして帆柱の縄に身を支えて、危なく転げ出すことを免れたものもありました。
「おい、船頭さん、大丈夫かい、なんだか天気が危なくなったぜ、風がひどく吹募《ふきつの》るじゃねえか」
 船頭に向って駄目を押すものがありました。船の中にあっては船頭の一顰一笑《いっぴんいっしょう》も、乗合の人のすべての心を支配することは、いつも変りがありません。
「ナニ、大したことはござんせんがね、これが丑寅《うしとら》に変らなけりゃあ大丈夫ですよ。そんなことはありゃしませんよ。それでもこの分じゃ、ちっとばかり荒れますよ」
 船頭はこう言って乗客の不安を抑えておいて、一方には水主《かこ》の方へ向って、
「やい、つか[#「つか」に傍点]せてやれ、開いちゃ悪いぜ、まき[#「まき」に傍点]り直して乗り落すようにしねえと凌《しの》ぎがよくねえや、そ
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