それを遠慮するような女ではありません。
「まあ、ほんとにお気の毒に存じます、では、船のえんぎでございますから、あとから参りまして、女のくせにお高いところで御免を蒙《こうむ》ります。庄さん、お前もそれでは御免を蒙ってここへ坐らせていただいたらいいでしょう」
こんなわけで、座席の入れ替えが無事に済みました。お角はこの船の中で、神様から二番目の人にされてしまいました。
まもなくお角は、その隣席にいる例の深川の炭問屋の主人と好い話敵《はなしがたき》になりました。
「どちらへいらっしゃいますね」
炭問屋の主人がまずこう言って尋ねると、お角がそれに答えて、
「はい、木更津から那古《なこ》の観音様へ参詣を致し、ことによったら館山《たてやま》まで参ろうと思うんでございます」
「ごゆさんでございますかね」
「そういうわけでもございません、少しばかり尋ねたい人がありまして」
「ははあ、なるほど」
炭問屋の主人は腮《あご》を撫でて、ははあなるほどと言いましたけれども、それは別に見当をつけて言ったわけではありません。本来この女が今時分、房州あたりまでゆさんに出かけるはずの女子《おなご》でもないし、また、そちらの方に尋ねる人があってという言い分も、なんだかお座なりのように聞えます。と言って、今日はいつぞや甲州まで、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百を追いかけて行ったような血眼《ちまなこ》でもなく、お供をつれておちつき払って構えているのは、何か相当のあたり[#「あたり」に傍点]がなければならないはずです。すでに相当のあたり[#「あたり」に傍点]があって出かける以上は、転んでも只は起きない女だから、何か一やま[#「やま」に傍点]当てて来るつもりなのでしょう。炭問屋の主人は、そこまで詮索《せんさく》してみようという気はありませんから、いつしか自分の案内知った房州話になってしまいました。
那古へ行くならば鋸山《のこぎりやま》の日本寺《にほんじ》へも参詣をするがよいとか、館山あたりへ行ってはどこの旅籠《はたご》が親切で、土地の人気はこうだというようなことを、お角に向って細かに案内をしてくれるのであります。お角がそれを有難く聞いていると、ほかの乗合までが、それぞれ口を出して、炭問屋の主人の案内の足らざるを補うものもあるし、また突込んで質問をはじめる者も出て来ました。はじめはお角と炭問屋の主人
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