登守にも、神尾主膳にも、あんなに心安立てにはできないはずだが、お銀様にジロリとあの眼で睨められると、口から出ようとした言葉さえ、咽喉へ押詰ってしまうのが、自分ながら腑甲斐《ふがい》のないことに思われて、あとで焦《じれ》ったがるが、その前へ出ると、どうしても段違いで相撲にならないことが自分でわかるだけに、口惜《くや》しくてならないでいるのです。
お銀様の応対は、いつも懐中に匕首《あいくち》を蓄えていて、いざと言えば、自分の咽喉元へブッツリとそれが飛んで来るようで、危なくてたまらない。お銀様は、たしかに武術の心得もあって、何者でも身近く寄せつけないだけの用意は、いつでもしている。神尾主膳ほどの乱暴者でも、うっかり傍へ近寄れないのはそのせいでもあるが、お角の近寄れないのはそれだけではない。どこがどう強くって、どんなに怖いのだかわからないなりに、お角にとってはお銀様が苦手《にがて》です。
お角はその絵本を見ると、お銀様の生霊《いきりょう》がいちいちそれに乗りうつって、この薄暗い土蔵の二階の一間には、すべて陰深《いんしん》たる何かの呪いの気が立てこめているようで、怖ろしくてたまらないから、急いで絵の本を伏せて、梯子段の降り口にかかりました。
離れにいるお絹は、このごろでは、ずっと以前のように切髪に被布の姿で、行い澄ましておりました。母屋《おもや》の方へは滅多に出入りしないけれども、どうしたものか、お角が来た時だけは、お絹の神経が過敏になります。今日もお角が訪ねて来たことを知って、
「また、あの女が来たようだから、お前、御苦労だが様子を見て来ておくれ」
と召使の女中に言いつけて出してやりました。そのあとへ、
「御新造《ごしんぞ》、おいでか」
庭先から入り込んで来たのは、前に福兄と言った大奴《おおやっこ》であります。いつのまにか着物を着替えて若党の姿になり、脇差を差して刀を提げ、心安立てに縁から上って来ました。
「おや、福村さん」
と言って、お絹は愛想よく迎えました。お角に言わせればこの人は福兄で、ここへ来ては福村さんになる。前の時は奴風で、ここではもう若党に早変りしているのが、化物屋敷の化物屋敷たる所以《ゆえん》でありましょう。
若党の福村は座敷へ入って、しきりにお絹と話をしていたが、暫くして、
「これから大将のお伴《とも》と化けて、番町まで出向かにゃならん、今日はこ
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