しむかいの影法師を、ちらりと睨《にら》んだ者がこちと[#「こちと」に傍点]等の仲間にあったのだ、そうしてその一人が、両国橋の女軽業の太夫元のお角さんとやらに似ていたとか、いなかったとか、岡焼《おかやき》めらが騒いでいるんだから始末におえねえ」
「え、そりゃお安くないんですね、両国橋の女軽業の何とやらのお角さんといえば、多分この辺にいるお婆さんのことでしょうけれど、今時こんなお婆さんを相手にする茶人があるというのは、頼もしいことですね」
「実際、頼もしいんだから驚きまさあね。しかし、お婆さんはかわいそうですよ、年増盛りのハチ切れそうなのを捉まえて、お婆さんはかわいそうだね」
「まあ、ようござんす、どのみち浮名《うきな》を立てられるうちが、人間の花ですからね」
「そりゃ花ですともさ。ですけれども、花もあんまり、こってりと咲かれると、よその花ながら嫉《ねた》ましくなるよ、ねえ大将」
「うむ」
「殿様も福兄さんも、なんだか奥歯にはさまるような言い方をなさるから、わたしゃ、どうも痛くない腹を探られているようで小焦《こじれ》ったくってたまりません、わたしの身に後ろ暗いことがあるようでしたら、ハッキリとおっしゃって下さいな」
「ところが、どうもハッキリとは言えねえんだ、ともかく、船から上ると飛びつくように嬉しがって、お手を取って御案内申し上げ、それから後が、船宿のさしむかいという御寸法になったまでは篤《とく》と見届けたんだが、それから先が、惜しいことに雲隠れで……」
「人違いもその辺になると御愛嬌ですよ、その色男の面《かお》が見てやりたいものでしたね」
「それそれ、それがわかれば動きは取らせねえのだが、夕方のことではあったし、厳重に覆面はしていたし、さっぱり当りがつかなかったというのが、こっちの弱味だ。それでも、年の頃は三十前後の品格のある武士で、微行《しのび》ではあるが旗本とすれば身分の重い方、ことによったら大名の若殿でもありゃしねえかと、こう睨んで来た奴がある」
「おやおや、それは大変なことになりましたね、そうしてその御身分のあるお方のお相手というのが、やっぱり両国の女軽業の古狸なんですか」
「大地を打つ槌《つち》は外《はず》るるとも、そればっかりは疑いなし」
「ほんとうに有難い仕合せですね。そうしてなんですか神尾の殿様、あなた様は、いったいその身分のあるお武家様がどなたでい
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