「ムクや、お前とここで投扇興《とうせんきょう》をして遊びましょう、わたしが投げるから、お前、取っておいで」
こう言ってお君は、手にしていた扇子を颯《さっ》と開いて投げました。扇子は流星のように飛んで彼方《かなた》の芝生の上に落ちると、ムクはユラリと身を躍らして一飛びに飛んで行き、要《かなめ》のあたりを啣《くわ》えて、開いたなりの扇子を、再びお君の手に渡します。
「おお、よく持って来てくれました、お前はほんとによい犬だ、わたしのムク犬や、もう一度、投げるから取っておいで、いいかい、今度は、下へ落ちないうちに受けるのですよ」
開いてあったその扇子を、ピタリと締めて、お君はそれを空中高く投げ上げました。
「さあ、下へ落ちないうちに」
中空高く上った扇子が、トンボのように舞って落ちて来ると、それは早くもムクの大きな口の中に啣えられました。
「上手上手、まだお前、いろいろの芸当が出来るんだね、間《あい》の山《やま》にいた時から、わたしが仕込んだ上に、両国へ来てから、みんなに仕込まれたのだから、ずいぶんお前は芸の数を知ってるでしょう、忘れないでおいで。一旦覚えたものを忘れるようなお前じゃないけれど、それでも、お浚《さら》いをしないと、人間だって忘れることが多いんだから無理もないわ」
お君はムク犬の口から、扇子を外《はず》して頭を撫でてやりましたが、
「忘れるといえば、わたし、三味線の手を忘れてしまやしないか知ら。間の山節は、わたしよりほかに歌える人はないんだから、あれをわたしが忘れてしまうと、あとを継ぐ人がない、それではお母さんに済まない」
お君はこう言ってその扇子を取り直すと、撥《ばち》のつもりに取りなして、左の手で三味線を抱えるこなしをして、口三味線でうたいはじめ、
「大丈夫、わたしは決して忘れやしない」
淋しく笑って、池のほとりへ出ました。
「ムクや」
左へ廻って附いているムク犬を、慌《あわただ》しく右の方から尋ねて、
「お前、他見《わきみ》をしちゃいけません、可愛い可愛いわたしのムク犬や、お前、何でもわたしの言うことを聞いてくれますね、お前は一旦覚えた芸は決して忘れやしませんね、だから、一旦お世話になった人も決して忘れやしないでしょう……ほんとに忘れないならば、お前、殿様をお探し申して来ておくれ、わたしを、あの殿様のいらっしゃるところへ、お前、後生だから連
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