私が三里歩けば、あいつは五里歩いて見せようという意地っ張りがどこまでも附いて廻って、とうとうあの片腕を落すまでになったんでございます。それでも持って生れた性根《しょうね》というやつは、なかなか直るもんじゃなく、私が先生について一肌脱ごうということになると、あいつが、いい気になって、浪人たちの方へ廻り、ああやって意地を見せようというんですから、全く始末の悪い奴ですよ。ナニ、大した悪党じゃございませんが、ずいぶん小癪にさわるいたずら野郎でございます」
 七兵衛は草鞋《わらじ》の紐を結び換えながら、こんなことを言うと、額面を仰いでいた山崎が、何か四方《あたり》を見廻して、額堂の軒に立てかけてあった二間梯子のあたりへ横目をくれながら、
「そのことを言っているのじゃねえ……七兵衛、ちょっとその手拭を貸してくれ。爺さん、この手桶を、こっちへ出してくれねえか」
「へえへえ」
 甘酒屋の親爺《おやじ》は言われるままに、柄杓《ひしゃく》の入った手桶を取って山崎の前へ提げて来ると、山崎譲は柄杓を右の手に取って、左の手で、七兵衛から借受けた手拭を、少し長目に丸めてザブリと水をかけ、さいぜん横目にながめていた二間梯子のところへ行って、それを右の手に抱え込んで、甲源一刀流の掛額のところに立てかけました。梯子を立てかけた山崎譲は、左手に濡手拭をさげたままでドシドシと梯子を上って行くから、
「旦那、何をなさるんでございます」
 甘酒屋の親爺が仰天すると、梯子を一段だけ踏み残して上りつめていた山崎譲は、背伸びをして、その甲源一刀流の大額の、門弟席の初筆から三番目の張紙の上へ、グジャグジャに濡れていた手拭を叩きつけたから、
「先生、ナ、ナニをなさるんで」
 七兵衛もまた、甘酒屋の老爺と同じように慌《あわ》てました。
「この男をこうしておくのが癪にさわるんだ、開眼導師《かいげんどうし》には、水戸の山崎譲ではちっと不足かも知れねえ」
 濡らしておいた張紙をメリメリと引きめくると、その下に隠れていたまだ新しい木地の上に、ありありと現われたのはなるほど、机竜之助相馬なにがしの文字であります。

         十二

 その前後のことでありました、碓氷峠《うすいとうげ》の横川の関所から始まって、同心や捕手が四方へ飛びましたのは。
 聞いてみると、それはこんなわけです。昨夜、加州家の宰領の附いた荷駄《にだ》
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