が二頭、峠を越えて坂本の本陣まで着いたことはわかっているが、それから以後の行動が明らかでないということです。馬だけは確かにつなぎ捨てられてあるが、馬の背にのせた若干の荷物と、それに附添った侍と馬方との行方《ゆくえ》が、わからないとのことです。
 取調べてみると、たしかに加州家の荷物で、北国筋からかなり長い旅路を送られて来たことも確かです。ただ問題になるのは、そののせられて来た荷物です。或いは金箱をかなり多く、何万というほどの額《たか》を積んで来たものだろうという説もあります。また、それは金子《きんす》ではなく、火薬の類《たぐい》だろうという説もありました。ここには例の加州家の鉄砲倉もあることだから、或いはそれに要する火薬の類を運送して来たのではなかろうかという説によって、鉄砲倉や、煙硝蔵《えんしょうぐら》を調べて見たけれども、そこにはなんらの異状もありません。
 その評定半ばのところへ、上方から飛脚が飛んで来て、はじめてこの事件の性質がわかりました。それは火薬ではなく金。その金額は二万両。それはこういうわけです。
 これより先、水戸の家老、武田耕雲斎が大将となって、正党の士千三百人を率いて京都に馳《は》せ上り、一橋慶喜《ひとつばしけいき》に就いて意見を述べようとして、奥州路から上京の途につきました。その途中を支える諸大名の兵と戦いつつ、ついに加賀藩まで行ったけれど、そこで力が尽きて降参し、耕雲斎をはじめ、重《おも》なる者はことごとく加州領内で殺されることになり、藤田小四郎もその時に斬られた一人であります。ともかくもこれらの志士を、北国の雪の中に見殺しの悲惨な運命に逢わせたその責めは、誰に帰《き》すべきものであるか知れないが……その時に行方不明になった若干の軍用金が、ここの問題になる金なのであります。その以前、筑波《つくば》騒動の時、武田伊賀守(耕雲斎)が幕府へ向けて、騒動を鎮めるための軍用金として借受けた三万両の金がありました。その借用証は伊賀守一人の印で受取って、三万両のうちの一万両は小石川の水戸家の蔵へ納めました。けれども、あと二万両の金の行方が誰にもわからないのであります。或る者はすでに筑波騒動以来の軍用に費《つか》ってしまったとも言い、或る者は北国まで上る長の路用に尽きてしまったとも言い、或る者は、まだ他日に備えるために耕雲斎や藤田の手許《てもと》に最後まで
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