てみますと、お君ではなくて、あなた様にお目にかかることができました」
 ムク犬が洪水《おおみず》の中から救い出して来たという人、それが竜之助であったということがわかって狂喜したのは、やや話が進んだ後のことであります。

         四

 宇津木兵馬はどうしても、神尾主膳が机竜之助を隠しているとしか思われません。
 神尾の屋敷は種々雑多な人が集まるそうだから、そのなかに机竜之助も隠れているに相違ないと信じていました。
 けれども、甲府における兵馬は、破牢の人であります。罪のあるとないとに拘らず、うかとはその町の中へ足の踏み込めない人になっているから、長禅寺を足がかりにして、僧の姿をして夜な夜な神尾の本邸と別宅との両方に心を配って、つけ覘《ねら》っていました。
 まず見つけ次第に神尾主膳を取って押えて、直接《じか》に詰問してみよう、神尾を討って捨てても構わないと思いました。彼、神尾は、自分にとって恩義のある駒井能登守を陥《おとしい》れた小人であって、敵の片割れと言えば言えないこともない。その非常手段を取ろうとまで覚悟をきめて様子をうかがうと、このごろ神尾は、病気になって寝ているということを聞き込みました。その病気というのは、犬に噛みつかれた創《きず》がもとだということまでも聞き込むことができました。
 よし、その医者をひとつ当ってみよう。兵馬は例の表《うわべ》だけの僧形《そうぎょう》で、神尾の屋敷の前まで来かかると、門前に人集《ひとだか》りがあります。穏かでないのは、これが城下の人ではなく、蓑笠《みのかさ》をつけ得物《えもの》を取った、百姓|一揆《いっき》とも見れば見られぬこともない人々であります。
「お願いでございます、神尾の殿様」
「お願いでございます」
と彼等は口々に罵《ののし》っておる。
「退《さが》れ退れ、退れと申すに。殿はただいま御病気じゃ、追って穏便《おんびん》の沙汰《さた》を致すから、今日はこのまま引取れと申すに」
 門番はこう言って叱りつけると、
「どうか、殿様にお目にかかりてえんでございます、殿様にお目にかかって、その申しわけがお聞き申してえんでございます」
「聞分けのない者共だ、強《し》いて左様なことを申すと為めにならん」
「そんなことをおっしゃらずに、殿様に取次いでおくんなさいまし、その御返事を聞かなければ帰れねえのでございます、御病気でも、お口くらいはお利《き》きになるでごぜえましょう、どうか、神尾の殿様にお願い申して、長吉と長太とを返していただきてえんでございます、それがために仲間のものが、こうして揃って参《めえ》りましたんでございます」
「そのような者は御主人は御存じがない、ほかを探してみるがよい」
「駄目でございます、ほかを探したって、ほかにいるはずのもんでごぜえません、こちらの殿様にお頼まれ申して参りましたのが、今日で二十日になるけれども、まだ帰って参らねえのでございます」
「左様なことはこちらの知ったことではない、それしきのことに、斯様《かよう》に仰々《ぎょうぎょう》しく多勢が打連れて参るのは、上《かみ》を怖れぬ振舞、表沙汰に致すとその分では済ませられぬ、今のうちに帰れ、帰れ」
「こちら様の方では、それしきのことでございましょうが、私共の方にはなかなかの大事でごぜえます、長吉にも長太にも、女房もあれば子供もあるでごぜえます、亭主を亡くなした女房子供が、泣いているのでございます」
「くどいやつらじゃ、左様なことは当屋敷の知ったことではないと申すに」
「お前様にはわからねえでごぜえます、殿様でなければわからねえでごぜえます、殿様にお目にかかって、長吉の野郎と長太の野郎が、生きているのか死んでしまったのか、そこんところをお伺い申してえんでございます」
「黙れ、穢多《えた》非人《ひにん》の分際《ぶんざい》で」
「黙らねえでございます、穢多非人で結構でございます、穢多非人だからといって、そう人の命を取っていいわけのものではごぜえますめえ、長吉、長太は犬を殺すのが商売でございます、それで頼まれて来たもんでございます、殿様に殺されに来たもんではねえのでございます」
「御主人に対して無礼なことを申すと、奉行に引渡すぞ」
「引渡されて結構でごぜえます、眼のあいたお奉行様にお願《ねげ》え申して、長吉、長太の野郎をかえしていただきましょう、長吉、長太をかえして下されば、わしらは、牢屋へブチ込まれてもかまわねえんでごぜえます」
「よし、一人残らず引括《ひっくく》るからそう思え」
「おい、みんな、一人残らず引括りなさるとよ、ずいぶん引括っておもらい申すべえじゃねえか」
「そうだ、そうだ、引括られるもんなら、みんな一度に引括っておもらい申してえもんだ」
「引括られるとしても、薪《まき》ざっぽうや麦藁《むぎわら》とは違うのだから、ただで引括られても詰らねえじゃねえか、ちっとばかり手足をバタバタさせ、それから引括られた方がよかんべえ」
「その方がいい、そうしているうちには殿様が出て来て、長吉、長太を返しておくんなさらねえものでもあるめえ。さあ、みんな、一度に引括られてみようではねえか」
「こいつら、人外《にんがい》の分際で、武士に対して無礼を致すか」
 門の中から、数多《あまた》の侍足軽の連中が飛び出しました。
 その時代において、人間の部類から除外されていた種族の人に、四民のいちばん上へ立つように教えられていた武士たる者が、こんなにしてその門前で騒がれることは、あるまじきことであります。非常を過ぎた非常であります。兵馬はそれを見て、よくよくのことでなければならないと思いました。この部類の人々をかくまでに怒らせるに至った神尾の仕事に、たしかに、大きな乱暴があるものだと想像しないわけにはゆきません。
 見物のなかの噂によると、事実はこうだそうです。すなわち神尾主膳がこの部落のうちで皮剥《かわはぎ》の上手を二人雇うて、犬の皮を剥がせようとしたところが、やり損じて犬を逃がしてしまった。それを神尾主膳が怒って、無惨にも二人ともに槍で突き殺してしまった。それがついにこの部落の者を怒らして、再三かけ合ったが埒《らち》があかず、ついに今夜は手詰めの談判をするために、こうして大挙してやって来たのであると。
 穢多非人の分際として、苟《いやし》くも士人の門前にかかる振舞をすることは、大抵ならば同情が寄せられないはずでありますけれども、見物の大部は、ややもすれば、
「あれでは、ここの殿様が無理だ、穢多が怒るのが道理だ」
というように聞えるのであります。聞いていた兵馬も、なるほどそう言えばそうだ、たかが犬一疋のために、二人の人間を殺すとは心なき仕業《しわざ》であると、ここでも神尾の乱暴を憎む心になりました。
 そのうちにバラバラと石が降りはじめました。メリメリと長屋塀の一部や、門の扉が打壊されはじめたようであります。
「始まったな――」
 固唾《かたず》を呑んでながめている見物の中にも、石を拾って投げはじめる者もあります。
 そのうちに、穢多《えた》どもがわーっと鬨《とき》の声を揚げて、いよいよ屋敷へ乗り込んだかと思うと、そうでなく、雪崩《なだれ》を打って逃げ出すと、その煽《あお》りを喰って見物が雪崩を打って逃げ惑いました。見れば神尾の門内から多くの侍が、白刃を抜いて切先《きっさき》を揃えて打って出でたところで、その勢いに怖れて穢多非人どもが、一度にドッと逃げ出したもののようでありました。白刃の切先を揃えて切って出でたのは、神尾の家来ばかりではあるまい、この近いところに住んでいる勤番のうちから、加勢が盛んに来たものと見えます。
 穢多のうちには、切られたものも二人や三人ではないらしい。さすがに白刃を見ると彼等は胆《きも》を奪われ、パッと逃げ散ってしまったが、切って出でた侍たちは長追いをせずに、そのまま門の中へ引込んでしまいました。一旦逃げ散った穢多どもは、また一団《ひとかたまり》になったけれども、今度は別に文句も言わずに、門前に斬り倒された数名の手負《ておい》を引担いで、そのままいずこともなく引上げて行く模様であります。
 ともかく、この場の騒動はこれだけで一段落を告げましたけれど、彼等の恨みがこれだけで鎮まるべしとも思えず、神尾の方でもまた、いわゆる穢多非人|風情《ふぜい》から斯様《かよう》な無礼を加えられて、その分に済ましておくべしとも思われないのであります。
 その翌日、聞いてみると、果して昨夜の納まりは容易ならぬことでありました。なんでも、いったん神尾の門前を引上げた彼等の群れは荒川の岸に集まって、手負《ておい》を介抱したり、善後策を講じたりしているところへ、不意に与力同心が押寄せて、片っぱしからピシピシ縄にかけたということであります。縄にかけられないものは、命からがらいずれへか逃げ散ってしまったということであります。
 それだけの評判が長禅寺の境内までも聞えたから兵馬は、また急いで例の姿をして町の中へ立ち出でました。
 右の風聞のなお一層くわしきことを知ろうとして町へ出てみると、町では三人寄ればこの話であります。それを聞き纏《まと》めてみると、長禅寺で聞いたよりはいっそう惨酷《さんこく》なものでありました。
 神尾の門前を引上げた彼等が集まっていたのは、下飯田村の八幡社のあたりと言うことであったということで、そこへ踏み込まれて、ピシピシと縄をかけられた数は二十人という者もあるし、三十人というものもあり、或いは百人にも余るなんぞと話している者もありました。
 その縄をかけられた者共の処分について、ずいぶん烈しい噂《うわさ》が立っていました。一人残らずその場で弄殺《なぶりごろ》しになってしまったというのが事実に近いように聞きなされます。ともかくも、牢内へ繋いでおいて相当の処分をするという手段を取らずに、その場で首をもぎ、手足を斬り、さんざんの弄殺しを試みて、四肢五体を荒川の流れへ投げ込んでしまったということが言い囃《はや》されるのであります。兵馬はありそうなことだと思いつつ、どのみち神尾の身の上にも何か変事があるだろうと予期しながら、その晩は塩山の恵林寺へ帰って泊り、翌日、早朝に立って、また甲府へ帰って見ると昨夜――というよりは今暁に近い時、神尾主膳の邸が何者かによって焼き払われたということであります。兵馬はその委《くわ》しきを知るべく、わざと僧形を避けて徽典館《きてんかん》へ通う勤番の子弟に見えるような意匠を加えて、ひとり長禅寺を立ち出でました。
 兵馬が何心なく通りかかったのは、例の折助どもを得意とする酒場の前であります。この夜もまた、恋の勝利者だの、賭博の勝利者だのが集まって、太平楽《たいへいらく》を並べている。兵馬がその前を通り過ぎた時分に、酒場の縄暖簾《なわのれん》を分けて、ゲープという酒の息を吐きながら、くわえ楊子《ようじ》で出かけた男がありました。それは縞《しま》の着物を着て、縮緬《ちりめん》の三尺帯かなにかを、ちょっと気取って尻のあたりへ締めて、兵馬の前を千鳥足で歩きながら鼻唄をうたい出しました。
 それを後ろから兵馬が見ると、なんとなく見たことのあるような男だ、鼻唄の声までが聞いたことのあるように思われてならぬ。
「はッ、はッ、はッ、何が幸《せえわ》いになるものだかわからねえ、また何が間違えになるものだかわからねえ、人間万事|塞翁《さいおう》が馬よ、馬には乗ってみろ、人には添ってみろだ」
 その途端に、兵馬はようやく感づきました。これはいつぞや竜王へ行く時、畑の中の木の上で、犬に逐《お》いかけられて狼狽《ろうばい》していた男。
 その男の名前も金助と呼ぶことまで兵馬は覚えていました。この男を捉まえてみると面白かろう。
「金助どの」
「おや、どなたでございます」
 振返って金助は、怪しい眼を闇の中に光らせました。
「拙者《わし》じゃ」
 兵馬が、わざと名乗らないでなれなれしく傍へ寄ると、
「ああ、鈴木様の御次男様でございましたね、徽典館へおいでになるのでございますか、たいそう御勉強でございますね、お若
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