いうちは御勉強をなさらなくてはいけません」
金助は心得面《こころえがお》にこんなことを言って、委細自分で呑込んでしまったものらしく、兵馬はかえってそれがいいと思ったから、自分も鈴木様の御次男様とやらになりすまして、
「金助どの、昨夜の火事は驚いたでござろうな」
「驚きましたにもなんにも、あんなところへ赤い風が吹いて来ようとは思いませんからな」
「お前の家には、別に怪我もなかったか」
「へえ、有難うございます、私の家なんぞには怪我なんぞはございません、よし怪我があってみたところで、私なんぞは知ったことじゃあございません」
「それは何しろよかった」
「鈴木様の御次男様、いや辰一郎様でございましたね。なんでございますか、あの徽典館は昨夜の火事で、屋根へ飛火があってお家が大層いたんでおいでなさるそうでございますが、それでも今晩、学問がおありなさるのでございますか」
「大した損処《そんしょ》もないから、今晩も集まるつもりだ」
「それは結構でございます、お若いうちは御勉強をなさらなくてはなりません、私共みたようになっては追付きませんからな。ただいま何を御勉強でございます、論語でございますか、孟子でいらっしゃいますか、子曰《しのたま》わく君子は器ならずというんでございましょう、子曰わくは結構でございますね、十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わずとありましたな、あなた様はちょうどその志学のお年頃でございましょう、ところが私なんぞは三十にして立たず、四十にして腰が抜けというところなんでございます、どうもいけません。しかし辰一郎様、人間は学問ばかりしたからといってそれでいいというわけではありませんね、青表紙をたくさん読んで、活字引《いきじびき》になってみたところで一向つまりませんな、活字引はまだいいけれども、腐れ儒者となった日には手もつけられません、学問は実地に活用しなければつまらねえんでございます。いかがでございます、時々は狂歌、都々逸《どどいつ》、柳樽《やなぎだる》の類《たぐい》をおやりになっては。ああいったものをやりますと、自然に人間が砕けて参りますな、人間にそれだけユトリが出来て参りますな、人間は朝から晩まで子曰わくではやりきれません、風流ということは大切なものでございますよ、ちと、その方を御指南致しましょうかね、は、は、は」
「金助どの」
「はい」
「お前は、これからどこへ行く」
「私でございますか、私はこれから少しばかり淋しいところへ行くのでございます、淋しいところと言ったからとて、別に幽霊やお化けの出るところではございません、古城《ふるじろ》の方へ参るのでございます、古城は、躑躅《つつじ》ケ崎《さき》は神尾主膳様のお下屋敷まで、これからお見舞に上ろうというんでございます」
「左様か」
金助は言わでものことまで言ってしまいました。兵馬は計らず都合のよいことを聞いてしまいました。
「ねえ鈴木様の御次男様、昨夕《ゆうべ》の火事は、お驚きなすったでございましょうね」
金助は同じようなことを繰返しました。
「驚いたとも」
「私も驚きましたよ、まさか、あすこへ、あれほど思い切って赤い風が吹こうとは思いませんからね」
「金助どの、あれは一体、放火《つけび》か、それともそそう火か」
「放火……いや御冗談をおっしゃっちゃいけません、この御城下の、しかも当時飛ぶ鳥を落すほどの神尾主膳様のお邸へ、どこの奴が放火をするもんですか、そそう火にきまってますよ、誰が何と言ったって、そそう火でございます、放火だなんという奴があったら、ここへ連れておいでなさいまし」
「それはそうであろう。して、神尾殿や御一族はいずれに避難をしていらっしゃる」
「神尾様のお立退き先でございますか、それはわかりませんね、よしわかっていても、そればっかりは申し上げられませんね、それを知っているのは大方、この金助ぐれえのもので……おっと危ねえ、そりゃ嘘でございます、神尾の殿様は躑躅ケ崎のお下屋敷へお立退きでございますよ、ええええ、御無事でいらっしゃいますとも、お怪我なんどはちっともおありなさりゃしません、もしお怪我があるという者があったら、ここへ連れておいでなさいまし」
「拙者《わし》も、その神尾殿に会ってお見舞を申し上げたいと思うのだが、どちらにお立退きだかわからない」
「それはそうでございましょう、躑躅ケ崎においでになることはおいでになるに違いないのでございますがね、当分はどなたにも決してお目にかかることはございません。それは御病気なんですよ、前から御病気でもって休んでおいでになったのでございます、この御病気がお癒《なお》りなさるまでは決して、それは御支配様にだってお目にかかることではございません」
「金助どの、それをお前がどうして知っている」
「どうして知っているとおっしゃったって、そこはこの金助でなければわからないのでございます、そこが金助の価値《ねうち》なんでございます」
酔っているとは言いながら、この金助の言うことは何か心得面でありました。だから兵馬はいよいよ好い獲物《えもの》と思って、
「ところで金助どの、お前に折入って頼みたいのだが、特別に拙者だけを神尾殿に引合せてくれまいか、内々で、ぜひともお話を申し上げねばならぬことがあるのじゃ」
「へえ、それはまた、どういうことでございましょう。しかし、それはせっかくでございますが、どうもそのお頼みばかりは駄目でございますよ、エエ、そりゃもう」
「左様なことを言わずに会わしてくれ」
「会わしてくれとおっしゃったところで、いねえ者はお会わせ申すことはできねえではございませんか」
「ナニ、神尾殿はおらぬと? では、躑躅ケ崎においでになるというのは嘘か」
「エエ、なんでございます」
「今、お前は、神尾殿は躑躅ケ崎の下屋敷に立退いておいでになると言ったではないか」
「そう申しましたよ」
「そんならば、拙者は会いたいのじゃ、会って直々《じきじき》にお話し申したいことがあるから、それをお前に頼むのじゃ」
「なるほど」
「さあ、お前が躑躅ケ崎へ行くというなら、拙者も徽典館《きてんかん》へ行くことをやめて、お前と一緒に躑躅ケ崎へ行く、案内してくれ」
「そいつは困りましたな、そんな駄々をこねて下すっては困ります、お帰りなさいまし、ここからお帰りなすっておくんなさいまし」
「金助!」
兵馬は金助の手首を取って、グッと引き寄せました。
兵馬に強く手首を取られたものだから、金助は狼狽《うろた》えました。
「ナナ、何をなさるんで」
「拙者を躑躅ケ崎まで連れて行ってくれ」
「そりゃいけません」
「なぜいかんのだ」
「そりゃいけません」
「神尾主膳殿に会いたいのだ」
こう言って引き寄せた兵馬の言葉が、あまりに鋭かったから金助もやや激昂《げっこう》して、
「おやおや、お前様は、私をどうしようと言うんで。おや、お前様は鈴木様の御次男様ではねえのだな」
「金助、ほかに見覚えはないか」
「知らねえ」
「よく考えてみろ」
「何だか知らねえけれど、放しておくんなせえ、放さねえと為めになりませんぜ、それこそお怪我をなさいますぜ」
金助が振り切ろうとするのを兵馬は、地上へ難なく取って押えました。
「金助」
「ア痛い、この野郎、ふざけやがって、餓鬼《がき》のくせに」
「金助、痛いか」
「痛ッ!」
「いつぞや、竜王へ行く途中、貴様が犬に追われて、木の上へ登っていたのを助けてやったその時のことを忘れたか」
「エ、エ!」
「その時のが拙者じゃ、鈴木の次男とやらでもなんでもない」
「ア、左様でございましたか、その時は、どうも飛んだお世話さまになりました、そういうこととは存じませんものでございますから失礼を致しました、どうかお放しなすって下さいまし、痛くてたまらねえんでございますから」
「金助、お前は神尾家の様子をよく知っているようじゃ、拙者はそれをよく聞きたいのじゃ、包まず話してくれ」
「へえ、知っているだけのことはお話し申しますから、ここを放していただきてえんでございます」
「こうしているうちに話せ、神尾主膳殿は躑躅《つつじ》ケ崎《さき》におられるかおられぬか、まずそれを申せ」
「へえ、それは……躑躅ケ崎においでのはずでございますが……」
「いるならば、これから直ぐに拙者を案内致せ」
「どうも、そういうわけには参りませんで……」
「いやいや、貴様の口ぶりによれば、神尾家の内状をよく知っているらしい、隠し立てをすればこうじゃ」
兵馬は上にのしかかって、金助をギュウギュウ言わせます。
「ア、痛ッ、面《かお》の皮が摺剥《すりむ》けてしまいます、どうか御勘弁なすって下さいまし」
「早く言ってしまえば、無事に放してやる、言わなければ命を取る」
「あ、申し上げます、実はその神尾の殿様は、躑躅ケ崎においでなさるんではねえのでございます」
「それではどこにおられるのじゃ」
「それがその……」
「真直ぐに言ってしまえ」
「ア、痛ッ、ではお前様に限って申し上げてしまいます、神尾の殿様は生捕《いけど》られておしまいなすったのでございます、あの晩、放火《つけび》に来たやつらが神尾の殿様を生捕って、どこへか連れて行ってしまったのでございます」
「それは本当か」
「本当でございますとも。けれども神尾の殿様ともあるべきお方が、穢多《えた》のために生捕りにされたとあっては、御一統のお名前にも障《さわ》りますから、それで、ああして病気お引籠りということになっているんでございます。それも生捕られたのは殿様ばかりではございません、あの御別宅においでになるお絹様というお方も、やっぱり穢多に生捕られてしまったんでございます。その行先でございますか、それはわかりません、いずれ山また山の奥の方へ連れて行かれたんでございましょう」
金助の白状は嘘《うそ》か真実《まこと》か知らないが、神尾主膳が恨みの者の手によって生捕られたことは、信じ得べき根拠があるようです。
けれども、それは兵馬が強《し》いて突き留めたいことではありません。神尾が果して机竜之助を隠匿《かくま》っているかいないかということを知りたいのが、兵馬の唯一の望みであります。しかし、不幸にしてそれは金助が全く知らないことでした。兵馬の失望したのは、全く竜之助は神尾の屋敷にいなかったと見るよりほかは仕方がないからであります。少なくともあの火事の晩に避難した者の中には、机竜之助があったと想像することはできませんでした。
「そういうわけでございますからね、私共は実は金《かね》の蔓《つる》を失ったわけなんでございますよ、神尾の殿様を種無しにしたんじゃ、これから先が案じられるのでございましてね、山ん中へ探しに行こうかとこう思ってるんでございます」
金助はようやく起してもらって、こんな愚痴を言いました。
「お前は今、どこに奉公しているのだ」
「私でございますか、私は今はどこといって奉公をしているわけではねえのでございます、神尾の殿様のお出入りで、どうやらこうして気儘《きまま》に飲食《のみくい》ができて、ブラブラ遊んでいるのでございますよ、当分は、躑躅ケ崎のお下屋敷の片《かた》っ端《ぱし》をお借り申して、あすこに住んでいるのでございます」
「どうだ、その躑躅ケ崎の屋敷とやらへ、拙者を案内してくれないか」
「そりゃよろしうございますけれど、お前様はいったいどちらのお方で、何のためにそんなに神尾様のことをお聞きになるんでございます」
「そんなことは尋ねなくともよい、今晩は拙者をその躑躅ケ崎へ案内して、お前の寝るところへ泊めてもらいたい」
「そりゃ差支えはございませんがね、なんだか気味が悪いようでございますね」
兵馬はこうして金助を嚇《おどか》しながら先に立てて、躑躅ケ崎の下屋敷へ案内させました。それから屋敷のうちを、やはり金助を嚇して案内をさせて調べてみたけれど、神尾の家来が数人詰めているだけで、別に主人らしい者もありとは見られず、また自分のめざしている人が隠れているらしくも思われませんでした。この上は詮《せん》ないことと思って兵馬は、
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