いところへ来て下すった、今お前、お君さんが行方知れずになってしまったところなの」
「誰がどうしたんだ」
「ああ、米友さん、お前はまだ知らなかったのね、お君さんはこの家に、ずっと前からわたしといっしょに暮らしていたの、そのお君さんが今夜、見えなくなってしまったの、このごろ、古市へ行きたい行きたいと口癖のように言っていたから、その気になって出かけたのかも知れない、いいところへ米友さん来て下すった、お前さんも直ぐに探しに出かけて下さい、ほんとにせっかくおいでなすって早々、お使立てをするようなことを言って済みませんけれど、ほかの人と違って、あの方のことですから、お前さんも、喜んで行って下さるでしょう、早くして下さいまし」
「俺らは別に尋ねる人があって来たんだ、酔興《すいきょう》で歩いて来たんじゃねえや」
「ちょいとお待ち、米友さん、お前なにか腹を立てているの。それでまあ手槍を持って、この夜中を一人で歩いて……提灯も持たないで。何かお前にも急用がおありならば、この提灯を持っておいでなさい、提灯を持って歩かないと、辻番がやかましいから」
 お松は米友を追いかけて、自分の手にしている提灯を持たせようとします。その提灯のしるしには五七の桐がついておりました。
 お松の手から極めて無愛想に、提灯を受取った米友は、さっさと相生町の河岸を駈け抜けて、本所元町まで来てしまいました。それまで来ても一向、机竜之助の姿を認むることはできません。ちょうどこの時分に米友は、どこからともなく、一声高く吠える犬の声を聞きました。それは深夜のことで、ここまで来る間には犬が吠えないではありませんでした。けれども、ここで一声の犬の声を聞いた米友は、思わずブルッと戦慄しました。
 ここにおいて米友は、たったいまお松の言った言葉を思い合せました。いま吠えた犬の声がムクであってみると、米友はそこに何か異常なる出来事が起ったことを想像しなければなりません。ムクに逢わざること久しい米友は、その異常なる出来事を、路傍のこととして閑却するわけにはゆかないのであります。
 米友はその二声目を聞こうとして、両国橋の橋の手前へ現われました。目の前にやはり番所があります。小うるさい、また辻番かと思った米友は、ふと自分の手に持っている提灯を見ると、これだなと思いました。お松の手から受取った提灯を今更のように見廻すと、物々しい五七の桐の紋に初めて気がつきました。
 ちょうどその時であります、行手の両国橋の上で、
「あれ――危ない」
という声。
 柳の蔭へ槍を隠して橋を渡ろうとした米友は、この声を聞くと共に、その槍を押取《おっと》って驀然《まっしぐら》に駈け出しました。
 この時にあたっての米友は、もはや辻番の咎《とが》めを顧慮している遑《いとま》がありません。隼《はやぶさ》のように両国橋の上を飛びました。その時分に、橋の真中のあたりの欄干から身を躍らして……川をめがけて飛び込んだものがあるらしい。
「助けて――」
 絶叫と共に、ざんぶと水の音が立ちました。米友は橋の欄干に、一領の衣類がひっかかっているのを見ました。それは身分ある女の着るべき裲襠《うちかけ》であります。
「おい、どうしたんだ」
 提灯《ちょうちん》をかざして橋の下を見ると、波の上に慥《たしか》に物影があって、しきりに浮きつ沈みつしていることを認めました。
「はい、ムクがいるから助かります、この犬が、わたしを助けてくれます」
 水の中から人の声。
「ナニ、ムクだって? 犬がお前を助けるんだって、それじゃあお前は、君公だな」
 米友は、橋の板を踏み鳴らしました。
「チェッ」
 槍を橋板の上へさしおいて、
「ばかにしてやがら、この尾上岩藤《おのえいわふじ》のお化けみたようなやつが癪《しゃく》に触らあ、何だって今頃、両国橋をうろついてるんだ、駒井能登守という野郎にだまされて、それからいいかげんのところで抛《ほう》り出されて、身の振り方に困ってここへ身投げに来たんだろう、ザマあ見やがれ、俺《おい》らは知らねえぞ、第一、このビラシャラが癪に触らあ、この尾上岩藤が気に喰わねえ、ザマあ見やがれ」
 米友はこう言って罵《ののし》って、欄干にひっかかっている裲襠《うちかけ》を蹴飛ばしたが、それでも提灯をずっと下げて川の中を見下ろし、
「馬鹿野郎」
 たまり兼ねた宇治山田の米友は、提灯をさしおいて帯を解きにかかりました。

 それから両国橋の上へ数多《あまた》の提灯が集まったのは、久しい後のことではありません。
 それをよそにして、矢の倉の河岸《かし》、本多|隠岐守《おきのかみ》の中屋敷の塀の外に立っているのは、例の頭巾を被った机竜之助であります。机竜之助は竹の杖をついてその塀の下に立っていました。ここから見れば、両国橋の側面は、その全体を見ることもできるし、橋の上の人の提灯も、橋の下の舟の提灯も、絵に描いたように見えるけれども、それを眺めているのではありません。
 暫くこうして塀の際に立っていた竜之助は、息をついているのであります。隠岐守の屋敷の隣は一橋殿で、その向うは牧野越中守の中屋敷、つづいて大岡、酒井、松平|因幡守《いなばのかみ》等の屋敷、それから新大橋であります。
 ここへ来て立っている竜之助は、血に渇《かわ》いていました。たった今は両国橋の上で、斬って捨つべかりし人を斬り損ないました。そこにはたしかに邪魔物があった、その邪魔物は人でなくて動物でありました。その動物はもちろん犬であります。
 その犬が……竜之助がここへ来ても、なお不審に思うのはその犬が、猛然としてその主人らしいのを防いでいたけれど、しかも自分に向って、なんらかの親しみがなかった犬とは思われないことであります。ここへ来て、はじめて思い越すよう、伊勢から出て東海道を下る時、七里の渡しから浜松までの道中を、自分のために道案内してくれた不思議な犬があった。自分が全く明を失ったのは、あの犬と離れた後のことである。犬と離れて自分は、ある女の世話になって東海道を下ったが、あれから犬はどこへ行ったやら。いま出逢った犬が、どうもその犬であるような気がしてならぬ。
 斬らんとして斬り損じたことが、今宵に限って、まだ疑問として残されていたけれど、それがために血に渇《かわ》いている心の渇きは、癒《いや》されたものとは思われません。
 犬と人とをもろともに橋の下へ斬り落して、いや、斬り損じて落して、直ぐに刃《やいば》を納めて、橋上を西へ走りました。幸いにして橋番にも怪しまれずに、一気に広小路から元柳橋を越えて、ここの塀下に立ってみると、病み上りの身には、ほとんど堪え難い息切れがします。
 しかし、ともかくここまで来たのは、これから河岸を新大橋へ廻って、新大橋を渡って、弥勒寺橋《みろくじばし》の長屋へ帰るつもりと思わねばなりません。けれどもそれはこのまま、すんなりとは帰れますまい。
 市中の見廻りや辻番が怖いとならば、それは出て来た時も同じこと。このままで帰れないのは、途中のそれらの心配ではなくて、人を斬らんとして斬り損じたことは、水を飲まんとして飲み損じたものと同じことであります。人を斬ろうとして家を出たものが斬らずに帰ることは、水を飲まんとして井戸へ行ったものが、水を得ずして帰るのと同じことであります。
 こうして竜之助は、本多隠岐守の中屋敷の塀の下に立って、河岸に向いて立っておりました。
 竜之助がここに立っているとは知らず、後ろから静かに歩いて来る人があります。それもたった一人で歩いて来ます。提灯も点《つ》けずにこの夜中を一人で歩いて来るのは、不思議に似て不思議にあらず、これはやはり杖をついた按摩《あんま》でありました。笛を吹かないのはこのあたりが、いずれもお屋敷の塀であると知ってのことでしょう。
「もし」
 竜之助がその按摩を呼び留めました。
「はい」
 按摩は驚いたように、ピタリと杖を留めました。
「あの、本所へ参りたいのだが、その道筋は、これをどう参ってよろしいか教えてもらいたい」
「本所へおいでなさるのでございますか、本所はどちらへ」
「弥勒寺橋に近いところまで」
「弥勒寺橋……それならば、両国へおいでなすった方がお得でございましょう、これから少々戻りにはなりますがね」
「その両国へ出ないで、新大橋を渡って行きたいと思うのだが」
「新大橋……左様ならば、これを真直ぐにおいでなさいまし、わたくしもそちらの方へ参りますから、なんなら……」
と言いながら按摩《あんま》は、静かに歩いて竜之助の前を通り過ぎて行きます。
「今、両国に身投げがあったそうでございますね、でも助かったそうでございますよ」
 按摩は自分の気を引き立てるために、わざとこんなことを言って、
「米沢町のお得意へ参りましてな、ついこんなに遅くなってしまいましてな、先方では泊って行けとおっしゃって下すったんですがね、ナーニ夜道は按摩の常だと言って、こうして出て参りましたよ、送って下さるというのを断わりましてな。自慢じゃあございませんが、これが勘《かん》のせいで……わたくしも新大橋を渡って本所へ参るんでございます、これからまだ一軒お寄り申すところがありますから、それへ寄って、本所の二ツ目まで帰るんでございます。按摩ではございますが二ツ目へ帰ります。当節は世の中が物騒でございますから、うっかり夜道はできませんけれど、そこは按摩でございますから……おや、危のうございますよ、ここに水溜りがございますから」
 こう言って按摩が振返った時に、ヒヤリと冷たい風。音もなく下りて来た一刀。
「えッ、目の見えない者を斬ったな!」
 かわいそうに、まだ年の若い按摩でありました。振返った途端に、右の頬《ほお》げたから上下の歯を併《あわ》せて斜めに切って、左のあばらの下まで切り下げられて、二言《ふたこと》ともありません。

 宇治山田の米友が、弥勒寺橋の長屋へ帰って来たのは暁方《あけがた》のことでありました。戸をあけて内へ入って見ると、家の中はまだ暗いけれども、夜前と別に変ったこともありません。土間を見ると、竜之助の穿《は》いて出た草履《ぞうり》がちゃんと脱ぎ揃えてあります。
 そろそろと座敷へ上った米友は、そっと屏風の中を覗《のぞ》いて見ると、竜之助は右枕になってよく眠っておりました。その蒼白《あおじろ》い面《かお》が薄暗い中で、何とも言えず痛々しげに見えるのであります。
「うーむ」
と言って米友は、それを覗きながら腕組みをして唸りました。そうかといって、よく眠っているものを起そうとするでもありません。枕許の刀架を見ると、夜前見ておいたところよりはこころもち前へ進んでいるかと思われるだけで、大小一腰は少しの変りもなく、米友は昨日の朝したように、強《し》いてその刀を取って調べてみようでもありませんでした。
 こうして屏風の上から暫く眺めて唸っていた米友は、思い出したように炉の近いところへ来て火を焚きつけました。
「チェッ」
 火がよく焚きつかないで舌打ちをしました。ようやく火が燃え上った時分に米友は、ぼんやりとその火をながめていました。しばらくぼんやりと火をながめていた米友が、また急に思い出したように立ち上って、流し元へ行って、二升だきの鍋をさげて来ました。鍋の中には昨夕《ゆうべ》のうちにしかけておいた米があります。
 その鍋を自在鍵にかけて米友は、またぼんやりして鍋を見つめました。せっかくの焚火が消えかかるのに驚いて、また慌《あわ》てて薪を加えました。再び盛んに燃え上る火の前に米友は、またぼんやりとして、その火の色と二升だきの鍋の底とを見つめていました。
 そのうちに火が威勢よく燃えて、鍋の中の飯が吹き出すと、米友は慌てて鍋の蓋を取って、またその鍋を見つめて、ぼんやりとしていました。その時屏風の中で寝返りの音がして、さも苦しそうに呻《うめ》く声がしました。その声に驚かされた米友は、眼をギョロギョロさせて屏風の方を見返りました。
「眼の見えない者を斬った!」
 屏風の中の人は、夢か、うつつか、こう言った言葉に思わず身ぶるいして、
「エエ!」
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