《さ》ましたかと思った米友は、案外にも眼を醒ましたのではなく、やはりよく寝ているのであります。
 行燈のところで、米友の寝息をうかがうらしい竜之助は、左の親指を刀の鍔《つば》にあてがって立っています。もし米友が狸寝入りをしているものならば、竜之助はこれを斬ってしまうつもりでしょう。幸いにして米友は熟睡しています。足を一本、蒲団の外へはみ出しても知らないくらいによく寝ています。
 ほんとに米友がこの場合によく寝ていることは幸いでした。それは米友のために幸いであるのみならず、竜之助のためにも幸いです。いったい、竜之助は米友を米友と知らないでいるように、米友もまた竜之助を竜之助と知らないでいるのであります。おたがいに知らないでいるけれども、米友が竜之助を疑うように、竜之助もまた米友を疑わないわけにはゆきません。話をしているうちに、ちゃんぽんになっていた話が、或るところへ行ってピタリと合うことのあるのが不思議でありました。この前の日に、米友は何か急に思い当ったらしく、竜之助に向って、
「おい、お前は、本当の盲目《めくら》かい、盲目の真似をしているんじゃねえかな」
と言ったことがありました。何のつもりで米友がこう言ったのだか、その時に竜之助は思わずヒヤリとさせられました。米友が竜之助に疑いを懐《いだ》きはじめたのは、蓋《けだ》しこの時からのことであります。けれども、ここで熟睡していたから、その疑いもなんのことはなく、米友が寝像の悪いままでほしいままに寝ていると、行燈に片手をかけていた竜之助も、やや暫く立っていて、やがてまた一足歩き出した途端に行燈の火が消えました。
 細目にしてあった行燈の火が消えたことと消えないこととは、竜之助にとっては、大した障《さわ》りではありますまい。それと共に裏の雨戸が一枚、音もなく開きました。竜之助はその極めて僅かの間から外へ出てしまいました。
 竜之助が外へ出ると共に、むっくりと蒲団を刎退《はねの》けたのが米友であります。
 暗い中から、短気なる米友としては悠々と、壁に立てかけてあった手槍を取って、同じく外へ飛び出しました。

         十八

 この真夜中過ぎた晩に、両国橋の上を、たった一人で渡って行く女の人があります。女一人で今時分この橋を渡って行くことでさえが、思いもかけないことであるのに、その女の人は長い裲襠《うちかけ》の裳裾《もすそ》を引いて、さながら長局《ながつぼね》の廊下を歩むような足どりで、悠々寛々《ゆうゆうかんかん》と足を運んでいることは、尋常の沙汰とは思われません。
 お化粧をしていた面《おもて》は絵に見るもののように美しくありました。裲襠の肩が外れて、着物の褄《つま》も裾もハラハラと乱れていました。見れば真白な素足に、冷々《ひやひや》する露の下りた橋板の上を踏んでいます。
 さすがに賑わしい両国橋の上も下も、天地の眠る時分には眠らなければなりません。
「ムクや、お前わたしと一緒においで、離れちゃいやよ」
と女の人は言いました。それは間《あい》の山《やま》のお君であります。お君の歩くのと一緒に、ムク犬もまたこの橋の上を歩いていました。
 橋の真中へ来た時分に、お君は欄干に寄り添うて、水の流れをながめながら、
「ムクや、お前、離れちゃいけないよ、今度こそは間の山へ帰るんだから、これからお前、その間の道中が長いのだから、お前がついていてくれないと、わたしは、とても間の山までは行けやしない。それにお前は、どうかすると途中で、わたしを捨てたがるんだもの……ずいぶんお前は薄情な犬だこと、わたしよりもお前は、あのお松さんが好きになったのでしょう、だからお前は、わたしのところへは来ないで、お松さんのところへ尋ねて来るようになったのでしょう。お松さんは誰にも好かれます、兵馬さんにも好かれます、御老女様にも好かれます、また出入りのお武士《さむらい》たちもみんなお松様を好い人だと言って賞めています、それだのに、わたしは誰にも好かれません、みんなわたしを嫌います、駒井能登守様も、わたしを捨てて舟で逃げて行きました、お前、そうしておいで、お前を逃がさないように、これからどんなことがあっても、お前とわたしとは離れないように、ちゃんと鎖でつないで上げるから」
 お君は犬に向って、こんなことを言いながら扱帯《しごき》を解いたものと見え、その扱帯の端でムク犬の首をグルグルと巻きました。ムクはけねんに堪えやらぬ面をして主人を見上げながら、主人のする通りになっていると、
「さあ、こうしておいで、こうして行きさえすれば大丈夫、これから後は、お前とわたしが離れることはない、ふたり一緒に間の山へ帰れるから」
 扱帯《しごき》の一端を自分の手に持って橋の上を歩きはじめました。お君は、やはり気が変になっています。草も木も眠っているのだから、何人《なんぴと》もこの主従の異形《いぎょう》な夜行《よあるき》を見てあやしむものはありません。
 少しばかり歩き出した時に、悄々《しおしお》と歩いていたムク犬が後ろを見返りました。
「何をしているの、早く歩かなければ夜が明けてしまいます」
 お君は扱帯の端を強く引張りました。けれどもムク犬にはこたえませんでした。
「早くお歩きよ、夜が明けると少し都合が悪いことがあるんだから」
 それでもムク犬は動きませんでした。
「あれはお前、向う両国で、左へ曲ると駒止橋、真直ぐに行けば回向院、それを左へ曲ると一の橋、一の橋を渡らないで竪川通《たてかわどお》りを真直ぐに行くと相生町」
 お君はこんなことを繰返して、ぼんやりとこし方《かた》をながめながら立っていました。
「おや、誰か人が来るのだね、人が来るからお前はそれを待ってるのかい」
 この夜は真夜中過ぎとはいえ、月のない夜ではありませんでした。鎌よりは少し幅の広い月が、たしか愛宕《あたご》の山の上あたりに隠れていなければならない晩でありました。だから九十六間の両国橋の上に物の影があるとき、それが全く認められない程の晩ではありません。この時分に、橋の左の方の側をふらふらと歩いて行く黒い人影がありました。さてこそムク犬が、それに感づいたのは不思議ではありません。
 その黒い人影というのは、頭巾をかぶって、竹の杖をついた辻斬の人であります。米友を出し抜いて弥勒寺長屋《みろくじながや》を出た竜之助は、いつのまにか、こうしてここまで来ていました。
 お君はゾッとして、
「まあ、なんだか怖くなってしまった、早く行きましょう、お前は誰に見られてもかまわないか知らないが、わたしはそうはゆかないの、夜の明けないうちにこの橋を渡りきらないと、あとから追手がかかるかも知れないから」
 お君は強く扱帯《しごき》を引張りながら西へ向いて歩き出しましたけれど、犬はいっかな身動きもしません。頑《がん》として主人の意に従わないのみか猛犬は、かえって猛然として牙《きば》を鳴らしました。
 犬が牙を鳴らした時に、人が近づいています。
 駒止橋を渡って右手のところに辻番があるにはあるのです。しかしこの番人は、昼のうちお葬式が、橋の上を幾つ通ったかということを数えていればそれで役目の済む番人でしたから、深夜、眠い目をこすって、メソッコを売る必要はなかったかも知れません。
 お君もムク犬も無事にこの橋を渡りかけたように、この人影も無事に橋を渡ってここまで来ました。お君主従が行けば行く、とまればとまるのだから、たしかにそのあとを跟《つ》けて来たものと見られないではありません。
「どなた」
と言ったけれども返事がありません。お君は犬に向って、
「それごらん、お前が早く歩かないから、人が来ているじゃないか、相生町から、お前とわたしを追いかけて誰か来たんでしょう、誰でしょう、御老女様でしょうか、お松さんでしょうか、どなた」
とお君は、犬に向ってこんなことを言いました。けれども犬は答えず、やがて一声高く吠えました。
 いつしか杖を捨てた黒い人影は、刀を抜いています。
 言い知れぬ恐怖に襲われたお君は、そこに立ち竦《すく》んで、よろよろと倒れかかった片手を橋の欄干に持たせた途端に、
「あれ! 誰かお前の前にいる、お前を殺そうとしている、危ない!」

         十九

 弥勒寺橋《みろくじばし》の長屋から、机竜之助のあとを追うて出た宇治山田の米友は、そのあとを追うことにかなり苦しみました。
 なぜならば、外は月の光が暗いので、たしかに目星をつけて行く当の人影は、さながら煙のように、現われたり消えたりして行くからであります。人通りはまるっきり絶えてはいたけれども、弥勒寺橋の長屋を出て西へ向いて真直ぐに行けば、六間堀に浅野の辻番があります。右へ行くと、小浜の辻番があります。
 それを真直ぐには行かないで、少し後戻りをして林町の方へ出ました。林町の河岸地《かしじ》を二の橋まで来た時に、不意に竜之助の姿が見えなくなりました。米友はせき込んで小走りに走って見たところ、やはりいずれにもその姿が見えませんから、残念がって立っている時に、二の橋の欄干の側をフラフラと歩き出したのがやはりその人でありました。
 占めたと思って米友が、そのあとを抜き足で追っかけると、竜之助は煙のように橋を渡ってしまいました。米友がつづいて二の橋を渡ろうとする時に、行手から六尺棒を持った大男の体が見え出しました。
「やあ、あいつが向う河岸の辻番だ」
と米友は当惑して、小戻りして林町の町家の天水桶の蔭へ隠れると、鈴木の辻番は二の橋を渡って、米友の隠れている天水桶の前を、素通りして行ってしまいました。
 それをやり過ごした米友が、天水桶の蔭から出て二の橋を渡りきって、相生町四丁目の河岸地へ来た時分には、不幸にしてまたも竜之助の姿を見失ってしまいました。
「チェッ」
 米友は舌打ちをして忌々《いまいま》しがりました。さてどっちへ行ってみたらよかろう。たしかに橋を渡って真直ぐには行かないだろうと思う理由があります。それは、つい目の先に鈴木の辻番があって、それを通り越してもまたじきに関播磨守《せきはりまのかみ》の辻番に突き当ります。だから、夜分なんの用事かこうして出歩く人が、ことさらに関所の多いところをえらんで通るはずはなかろうと思ったからであります。
 それで米友は、左手の相生町の角を真直ぐに行きました。気のせいか、今夜の辻番はいつもと変って、なんとなく穏かでないらしく、相生町四丁目の向う角にある本多の辻番などは、何か声高《こわだか》に番人の話が聞えます。それでもまあ無事に辻番の眼を潜って、相生町の三丁目から二丁目へかかったけれど、いずれへ向いても人らしいものの影を見ることはできません。
「チェッ」
 二丁目の河岸《かし》を通りかかると、そこに一軒の大きな構えの家の表だけがあいていました。そして、その前に提灯を持った人が二三人出入りをしているので、米友は立ちどまって、はっと気がつきました。この家は箱惣の家であります。前に自分が留守をしていたことのある家、そこで浪人を追い払ったことのある家、またこの間はそこの井戸で、子供を水中から救い出したことの覚えのあるその家だけが物穏《ものおだや》かでないから、米友はギックリと立ちどまって、暫く様子を見なければなりません。
 その家の前に提灯をさげて、二三の人を差図をしているらしいのは、まだ若い女でありました。
「お秋さん、お前は台所町の方へ廻って下さい、お前さんと栄助さんがあちらから廻って、辻番でいちいちお聞き申してみて下さい、そうしてやはり両国橋へ出て、こちらの組と落合うようにして下さい。わたしはどうしても両国を渡ったものとしか思われない、でも途中で辻番に留められているかも知れないから、よく聞いて下さい」
 この差図をしている若い女の人の声、それが、まさに聞いたことのある人の声でしたから、
「おいおい、お前はお松さんじゃねえか」
「おや、どなた」
 女は振返って、
「まあ、お前は米友さんじゃないか」
「うむ、俺《おい》らだ」
「どうしてこの夜更けに、お前さん、こんなところへ……それでもよ
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