みに、何かわざわざ時間を潰《つぶ》す目的のためにここへ入り込んだものとしか思われません。そうでなければ、いくら物好きだからといって、米友を相手にこうして、摺物《すりもの》を読んで聞かせるはずがありません。
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「……折悪《をりあし》く局中病人多く、僅々三十人、二ケ所の屯所に分れ、一ケ所、土方歳三を頭として遣はし、人数多く候処、其方には居り合ひ申さず、下拙《げせつ》僅々人数引連れ出で、出口を固めさせ、打入り候もの、拙者初め沖田、永倉、藤堂、倅《せがれ》周平、右五人に御座候、かねて徒党の多勢を相手に火花を散らして一時余の間、戦闘に及び候処、永倉新八郎の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助の刀は刃切《はぎれ》出でささらの如く、倅周平は槍をきり折られ、下拙刀は虎徹故にや無事に御座候……」
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「なるほど」
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「実にこれまで度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は稀に覚え候へ共、今度の敵多勢とは申しながら孰《いづ》れも万夫不当の勇士、誠にあやふき命を助かり申候、先づは御安心下さるべく候……」
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「なるほど」
 米友はしきりに感心して、近藤勇がはるばる京都から、江戸にいる養父周斎の許《もと》へ宛てたという手紙のうつしを、読んでもらって聞いてしまいました。
 その途端《とたん》に、江戸町一丁目あたりで、つづけざまに二発の鉄砲が起りました。
 米友も驚いたが、二人の浪士も驚いて立ち上ります。
 この時分、万字楼の前で、十余人の茶袋がみんな刀を抜いて振り廻し、多数の弥次馬がそれを遠巻きにして、一人残さずやっつけろと叫んでいる光景は、かなりものすさまじいものでありました。
 その最中、取巻いた群集の後ろで不意に二発の鉄砲が響きました。それと共に哄《とき》の声を上げて一隊の歩兵が――どこに隠れていたものか知らん、刀を抜いて群衆の後ろから無二無三にきり込んで来たので、吉原の廓内《くるわうち》が戦場になりました。
 酒宴半ばにこの騒ぎを聞いた神尾主膳は、さすがに安からぬことに思いました。
 そこへ、主人が飛んで来て、
「ごらんの通りの始末でございます、お客様に万一のお怪我がありましては、申しわけのないことでございます、何卒、この間にお引取り下さいますよう、御案内を申し上げまする。あれは歩兵さん方でございます、はじめに参りましたのが土屋様のお邸の歩兵さん、あとから鉄砲を持って参りましたのが西丸の歩兵さん、今にもこれへ押上って参ることと思います、お腰の物、お懐中物、残らず次へ持参致させました」
「小癪《こしゃく》にさわる奴共」
とおこったけれども、彼等を相手に争う気にもなれません。
 こうして避難させられたお客は神尾主膳だけではなく、この夜、万字楼に登った客は、いちいちこうして避難させられました。
 相当に身分のあるものもあり、相当に勇気のあるものもあったろうけれど、誰ひとり残って、歩兵を相手に取ると頑張るものはありません。すすめられるままに、裏手や非常口から避難してしまいました。宇津木兵馬も無論その一人です。
「金助」
 非常口で兵馬は、金助を見かけたから呼びかけると、
「宇津木様、驚きましたな」
「神尾殿はどうした」
「へえ、神尾の殿様は、もう茶屋へお引取りになってしまいました」
「その茶屋へ案内しろ」
「よろしうございます」
 金助は兵馬の先に立って走る。
「茶屋はどこだ」
「たしかこの辺でございましたっけ」
「ナニ、たしかこの辺、貴様はその茶屋を知らんのか」
「茶屋から送られて参りますまでの途中で、お目にかかったんですから……」
「では、確《しか》としたことはわからんのじゃな」
「何しろこの通りの騒ぎでございますから、顛倒《てんとう》してしまいました」
「この騒ぎはいま始まったことだ、神尾殿を見逃さぬよう、用心を頼んでおいたのはそれより前のことじゃ」
「それは、お頼まれ申したに違いございません、いまお知らせ申そうか、少し後にした方が都合がよいだろうかと思っているうちに、この騒ぎでございましたから」
「金助、貴様は頼み甲斐のない奴だ」
「そういうわけではございませんけれど、何しろこの通りの騒ぎで……」
「何のために拙者《わし》をここまで連れて来たのじゃ」
「どうもまことにあいすみません」
「金助、とぼけるな」
 襟を取ってトンと突くと、金助は一たまりもなくひっくり返ってしまいました。
「まあ、お待ちなすって下さいまし、乱暴をなすっちゃいけません、そんな乱暴をなさると、茶袋といっしょにされてしまいますから」
 やっと起き上ったのを兵馬が再びトンと突くと、金助はまたひっくり返ってしまいました。
「ようございます、それでは、わたくしが内密《ないしょ》でその茶屋をお知らせ致します。お知らせ致しますけれども、決して私が申し上げたように神尾の殿様へおっしゃっては困ります、私が恨まれますからな。さあ御案内を致しましょう。御案内は致しますけれども、多分その茶屋だろうと思いますので……そこにおいでなさるかどうか、もし、そこにおいでなさらなくても私のせいではございませんから、それで御勘弁なすって下さいまし」
「早く行け」
「あれでございます、たしかあの相模屋というのからおいでになったようでございます、あれを尋ねてごらんなさいまし、私はこの天水桶の蔭に隠れておりますから、どうぞ私の名前はお出しなさらないように、そっと当ってみておくんなさいまし」

「神尾殿の許《もと》まで参りまする」
 兵馬は相模屋の店先へ軽く挨拶して、その足で座敷へ上ろうとする。
「はい、お二階にお休みでござりまする」
 自分が軽く出たから茶屋の者も軽く受けました。兵馬は早速二階へ上り、屏風の中に鼾《いびき》をかいて寝ている人の枕許へ近寄って、
「神尾殿、主膳殿」
「う、う、うむ」
 呼び醒《さ》まされた主膳は、唸《うな》るようなことを言って寝返りを打ちました。
「神尾主膳殿」
 兵馬は、主膳の枕許の刀架《かたなかけ》から刀を取って、その鍔音《つばおと》を高く鳴らすと、
「やっ、誰じゃ」
「お目ざめでござりましたか」
「其許《そこもと》は誰でござる」
「拙者は番町の片柳と申すものでござりまする、ちとあなた様に、お尋ね申したい儀がござりまして推参致しました」
「ナニ、拙者に何を尋ねたいのじゃ、其許を拙者は知らぬ」
「親しくお目にかかるは初めてながら、拙者はあなた様が甲府に御在勤の折、よそながらお目にかかりました」
「ナニ、拙者が甲府にいた時分? 其許は甲府から何しにこの拙者を尋ねて来た」
 神尾主膳は不安らしく起き直って、兵馬の面《かお》をながめました。
「私のお尋ね申したいのは、あなた様ではござりませぬ、あなた様にお聞き申したい人がござりまして」
「ナニ、拙者に聞きたい人? それは誰じゃ、誰を尋ねたいのじゃ」
「もしや、あなた様は、机竜之助というものを御存じではござりませぬか」
「知らぬ、左様な人は一向知らぬ」
「御存じない? それは真実でござりますか、真実その者の行方を御存じではござりませぬか」
「全く知らぬ、知ってはおらぬ」
「あの躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷は、あれはあなた様のお邸ではござりませぬか」
「躑躅ケ崎が拙者の何であろうと、其許に尋ねられる由はない。いったい、君は誰に断わってここへ来た」
「ひとりで参上致しました」
「断わりなしに来たか、無礼千万な、帰らっしゃい」
 主膳は起き直って、刀架から刀を取りました。
「まずお控え下されませ」
「黙れ黙れ、物を尋ねるなら尋ねるようにして来るがよい、人の寝込みへ踏み込んで、吟味するような尋ねぶり、小癪千万な」
 主膳は、甚だしく怒りました。
「そのお腹立ちを覚悟で参りました、あなた様がどうあっても、その机竜之助の行方《ゆくえ》を御存じないとおっしゃるならば、私にも覚悟がござりまする」
「ナニ、覚悟がある? 覚悟とはどうしようというのじゃ、小倅《こせがれ》の分際《ぶんざい》で」
「町奉行へ訴えて出まする」
「町奉行へ何を訴える、誰を町奉行へ訴えるのじゃ」
「あなた様のお屋敷へ火をつけた穢多《えた》非人《ひにん》の在所《ありか》を、訴えて出ようと思いまする」
「ナニ、穢多がどうした」
 神尾主膳は歯をギリギリと噛《か》んで、兵馬の面《かお》を睨《にら》めました。
「憎い奴、憎い奴」
 神尾主膳は怒心頭《いかりしんとう》に発したようでしたけれども、その間に多少の不安もあるようです。
「机竜之助の行方をさえお知らせ下さるならば、そのほかには、あなた様に御用のない私でござりまする」
「知らん、右様《みぎよう》な者は知らんと申すに」
 主膳は堪《こら》え兼ねて兵馬の隙をうかがい、刀の柄《つか》に手をかけました。抜打ちに斬って捨てようとするものらしい。
「それはかえってお為めになりませぬ」
 兵馬は主膳の手を押えました。
「放せ」
「左様にお手荒なことをなさると、場所柄でござりまする、あなた様のお名前が出まする」
「憎い奴だ」
 主膳はもがくけれども、兵馬に押えられて刀を抜くことができません。
「あの机竜之助と申す者は、拙者のためには敵《かたき》でござりまする、あの者を討ちたいがために多年、拙者は苦心致しておるものでござりまする、どうぞ武士のお情けを以て、その行方をお知らせ下さりませ」
「知らんと申すに、くどい奴じゃ」
「これほどに申し上げても」
「知らぬものは知らぬ、近ごろ珍しいほど執念深い奴じゃ、その分で置くではないけれど、拙者もこのごろは世を忍ぶ身じゃ、今日は許しておく、帰らっしゃい」
「いいえ、こうして参上致しました以上は、お尋ね申した御返事をお聞き申すまでは、この座を立ちませぬ」
と言いながら兵馬は、右の腕を伸べて、外側から大きく神尾主膳の首を抱きました。
「汝《おの》れ、この主膳を……手込めにしようとするな」
「お返事をお聞き申すまでは、こうしておりまする」
 兵馬は外から大きく神尾主膳の首を抱くと共に、力を極めてそれを自分の胸へ押しつけました。
「アッ、苦しい」
 主膳は苦しがって眼を剥《む》きました。苦しがったけれども、これは金助とは違います、たとえ今の自分が世を忍ぶ身であろうとも、かりにも神尾主膳ほどのものを捉《とら》えて、腕力で強迫して物を尋ねようとは言語道断の無礼であるという怒りは、その苦しさと一緒にこみ上げてきました。いわんや年もゆかぬ小童《こわっぱ》、見も知らぬ推参者にかかる無礼を加えられては、死んでも弱い音《ね》は吹けないのが神尾としての身上《しんじょう》であります。それだから苦しいのを堪《こら》えて、ジタバタしながら兵馬を押し退けて、刀を抜こうとするのであります。
「さあ、お聞かせ下さるか、それとも」
 こうなった以上は、兵馬もまた力ずくであります。力を緩《ゆる》めると、
「無礼な奴、斬って捨てる」
 主膳は直ぐにつけ込んではねあがって刀を抜こうとしますから、兵馬は再びその首を自分の胸へ、いよいよ強く押しつけるよりほかに仕方はありません。
「アッ、苦しいッ、放せ」
「お聞かせ下さらぬ以上は、決してお放し申しませぬ」
「放せッ、苦しい、死ぬ」
「放しませぬ」
「く……」
「さあ、お聞かせ下さい」
「く、死……」
 ほとんど死物狂いで主膳がもがくから、兵馬はそれに応じて満身の力を籠めて抱き締めると、やがて急に主膳の力が抜けました。力が抜けたかと思うと、ガックリとその首を、兵馬の胸へ垂れてしまいました。
「や、息が絶えた、死なれたか」
 兵馬も我ながら驚きました。知らず知らず自分は、神尾主膳を絞《し》め殺してしまったものらしくあります。

         十二

 この場にも意外の変事が起りましたけれど、これを外の騒ぎに比べると物の数ではありません。万字楼の前を中心にして、吉原の廓内で市街戦が起っているようなものであります。
 秋葉山《あきばさん》の大燈籠の下で、近藤勇の手紙の摺物《すりもの》を読んでいた二人の浪士と、それを聞いて
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